「事変不拡大」を模索した近衛文麿は、なぜ「日中戦争の泥沼化」を止められなかったのか

【特別公開】井上寿一=著『戦前昭和の社会』1
井上 寿一 プロフィール

「平和」を求める近衛

国民はラジオをとおして、一方で娯楽番組を消費しながら、他方で近衛文麿に熱狂する。

熱狂する大衆とは裏腹に、近衛は事変不拡大を模索しつづける。9月5日のラジオ放送においても近衛は強調している。

「隠忍に隠忍を重ねまして事件の拡大することを避け、支那側の反省を促し、速かに事態を収拾することに努めたのであります」

近衛が国民に訴えたのは「平和」だった。

「帝国は支那が真に反省し、東洋民族として日本と手を携えて行かねばならぬと悟る日が一日も速に来ることを、衷心より念願するものであります。斯くしてこそ日満支三国提携の実が挙げられまして、東亜永遠の平和の基礎が確立するのであります」

近衛は同日の衆議院本会議において、中野正剛の「南京政府撃滅論」を批判し、翌日にはあらためて「速かに且有効に局を結ぶことが、得策である」と答弁している(『近衛文麿 上巻』)。

近衛のブレーンのひとり、東京帝国大学の政治学者矢部貞治によれば、近衛は念入りに演説原稿を準備し、ラジオのマイクに向かって「落着いた態度で、比較的澄んだ声で」、国民に語りかけたという(同書)。しかし近衛のメッセージがラジオをとおして、国民に正確に伝わったかといえば、それは危うく疑わしかった。

戦争の長期化

日中全面戦争開始後のラジオは、新聞と同様に、国家統制下の同盟(通信社)ニュースを報道していた。ラジオはそのうえさらに逓信省の検閲を受けていたから、新聞以上に報道が制限されていた。

そうだとすると以下の新聞記事の取り締まり方針も、ラジオ統制に準用されたと考えてよいだろう。1937(昭和12)年10月14日付の陸軍省報道検閲係長名の文書「戦死傷者名ヲ新聞紙上ニ多数羅列セザル様指導相成度(あいなりたき)件」は指示する。

「新聞掲載ハ戦死者及重傷者ノ勇敢ナル行為又ハ美談等ヲ其肖像ト併載スル程度ニ止メ名簿式ニ氏名ヲ多数列挙スルガ如キコトナキ様可然(しかるべき)関係者ヲ指導相成度通牒ス」(『現代史資料41』)。ラジオは連戦連勝と勇敢な兵士の美談を報道していく。

国民はラジオの報道もあって戦勝気分が高まった。近衛は皮肉なことにこのような国民世論に縛られて、事変不拡大が困難になっていく。もう少しで首都南京が陥落する。そのときになって、近衛は周辺に辞意を漏らすようになる。

しかし国民大衆が辞意を許さなかった。近衛の伝記は当時の様子をつぎのように記している。

「田舎などの若い者には近衛の人気は非常なもので、歴代にない名総理だと言っており、日比谷での近衛の演説に共鳴し礼讃している……近衛が辞めたら非常なショックだ」(『近衛文麿 上巻』)。

近衛は辞めたくても辞められなかった。国内は戦争景気に沸いていた。戦勝は目前である。勝てば領土や賠償金を取ることができるかもしれない。戦争を歓迎する国民大衆と近衛との認識のギャップが広がる。日中戦争は長期化する。

近衛は戦争の早期解決にあらゆる手を打った。しかし戦争指導の主導権を軍部から奪い返すことに失敗する。ドイツを仲介国とする和平工作の挫折によって、万策尽きた近衛は政権を投げだす。1939(昭和14)年1月4日、近衛内閣は総辞職した。