「事変不拡大」を模索した近衛文麿は、なぜ「日中戦争の泥沼化」を止められなかったのか

【特別公開】井上寿一=著『戦前昭和の社会』1
井上 寿一 プロフィール

「不便な土地ほど便利なラヂオ」──戦争とラジオ

日本でラジオ放送がはじまったのは、1925(大正14)年である。この年度の受信者数は25万8500、普及率2.1パーセントだった。10年目の1934年度は197万9000、普及率15.5パーセントになっている。普及率には地域格差があった。たとえば東京府は47.8パーセントに対して、鹿児島県は4パーセント未満だった。

日中全面戦争勃発のこの年、1937(昭和12)年は、ラジオの聴取者が急激に増加している。増加数は、67万9639で、前年を上回ること19万6927だった。この年の都市部におけるラジオの普及率は48.2パーセント、郡部では14.3パーセントである。当時はラジオを大音量で鳴らしていたから、商店街や隣家から「もらい聞き」した人数が多数に上る。実際にラジオ放送に接していた人数はこの数字以上だったはずである。

当時は以下のような状況だった。「今までは新聞をたよりにして、ラジオはきいてもよし、きかなくてもすむ程度だった。/しかしこの頃は、新聞より早いニュースが聞けるかと思って必ずスィッチを入れる。それに戦死傷者の中に知人がいないかと耳をすますようになった」。

ラジオは戦時下の特別体制を編成する。新設の「早朝ニュース」は戦況を中心に報じた。戦争の意義や中国の事情を説明する「ニュース解説」やその日のニュースのまとめをする「今日のニュース」の新設、あるいは既存の番組の放送時間の延長もおこなわれた。

日中戦争は誰にとっても最大の関心事となった。戦況や親族・知人の安否をたしかめるために、農村漁村でもラジオを購入した。出征兵士の家の聴取料は免除された。ラジオをめぐる格差は是正される。

都市と郡部間の普及率の格差も、1931(昭和6)年度を100として比較すれば、1937(昭和12)年度の都市部の指数が200に対して郡部は311である。ラジオ普及率の格差は是正に向かっていた。

1938(昭和13)年の「ラヂオ標語」の懸賞当選作に「不便な土地ほど便利なラヂオ」というのがある。この標語が言い当てているように、ラジオは情報をめぐる格差是正のための新しい手段だった。