「事変不拡大」を模索した近衛文麿は、なぜ「日中戦争の泥沼化」を止められなかったのか

【特別公開】井上寿一=著『戦前昭和の社会』1
井上 寿一 プロフィール

危機のなかの近衛──盧溝橋事件

挙国一致的な国民の支持を得た近衛は、1ヵ月後、危機に直面する。日中全面戦争の勃発(1937〈昭和12〉年7月7日)である。

この日、北京郊外の盧溝橋において夜間演習中の日本軍に向けて発砲事件が起きる。盧溝橋事件は、満州事変のきっかけとなった柳条湖事件とは異なって、日本軍の組織的な謀略が引き起こしたのではない。偶発的な小規模の軍事衝突事件だった。事実、4日後には現地で停戦協定が成立している。

日中両国はどちらも戦争をしたくなかった。他方でどちらも相手国に譲歩してまで戦争の収拾を図る意思はなかった。相手の意図を測りかねた相互不信が戦争の拡大をもたらす。

近衛はラジオ放送をとおして直接、国民に説明する(7月27日)。「今回北支に派兵を致すこととなりましたが、我国の信念は一言にして申しますれば、『東亜の平和のために』ということに尽きるのでありまして、我方に於ては飽くまで事態の拡大を避けることに努めて来たのであります」。近衛が国民に説いたのは事変不拡大だった。

他方で近衛は「その他の列国との関係につきましては近年親密の度を加えつつあるのでありまして、今後は益々国交の増進と真の平和のために努力致す考であります」と列国協調の重要性を強調した。

近衛はこのラジオ演説においても就任の際と同様に、「外に対しては国際正義をのべる」との立場を確認している。そうすると「国際正義」とは、日中戦争の不拡大と列国協調のことになる。

これは近衛にしては奇妙な考えである。かつてパリ講和会議に出席した近衛は、列国の支配する力の現実を批判して、「英米本位の平和主義を排す」と主張した。「英米の平和主義は現状維持を便利とするものの唱うる事勿れ主義」である。このように非難した近衛の姿は、約20年後には消えていた。近衛は、独裁者がラジオをとおして対外侵略を煽るのとは対照的に、自己の基本的な立場をさりげなく転換し、列国協調路線の堅持を国民に訴えるようになっていた。

近衛はここでも「内に於ては社会正義を立て」るとくりかえしている。ところがその具体的な内容は矛盾に満ちたものだった。

「現下我国の政治はどこに重点を置くべきかという問題については、私はこれを国防の充実と国民生活の安定、この二つを基調とする諸方策に重点を置かねばならないと存じます」。

「国防の充実」と「国民生活の安定」を同時に実現することはむずかしい。それでもあらゆる政治勢力からの支持に応えなくてはならない以上、そうするしかなかった。

近衛の政治的な役割は、真の挙国一致体制の確立である。「従来のように国内の対立抗争が烈しくては到底この目的は達成出来ないのであります」。このように訴える近衛にとって、日中戦争の勃発は悪くなかった。戦争をとおして、挙国一致体制を確立する。その可能性が出てきたからである。

しかし現実は近衛の楽観を許さない展開をたどることになる。