米軍を唖然とさせた日本軍の人命軽視〜重傷病者には「自決」を要求

【特別公開】一ノ瀬俊也=著『日本軍と日本兵』3
一ノ瀬 俊也 プロフィール

薬剤不足と連合軍捕虜の解放

さらに日本兵捕虜は、日本軍病院への医薬品補給の内幕に関する証言も残している。

日本軍は治療材料を倹約する必要があった。捕虜の言によると、サルファ剤〔抗菌剤〕は生の裂傷には使われず、淋病の合併症や肺炎、その他の治療が効かない傷に限って用いられた。1943年3月以降、日本陸軍ではそれらの薬不足のため、使用は厳しく統制されることになった。捕虜は〝優良〟とみなされているバイエルの薬の量が減ったと述べている。アスピリン、モルヒネ、コカインはほとんど使えず、キニーネは不足している。しかし最大の関心事は脱脂綿、繃帯の不足である。

これらの証言が正確かどうかを日本側の史料で判定するのは困難だが、薬剤についても舶来のドイツ製品を有難く使っていたこと、海上輸送が途絶するなかで傷者の治療にもっとも必要なはずの繃帯すら品不足だったことなどは事実のように思える。これでは、ガ島以外の日本軍野戦病院でも同じかそれ以下の、地獄のような光景が広がっていたはずだ。

ところで、日本軍は戦争末期に至るまで、退却の際に味方重傷病者を捕虜とされぬよう殺害していた。

IB「日本の軍陣医学」は1945年の「沖縄作戦で日本軍が自軍の負傷者を殺したさらなる証拠」として「大田提督〔大田実少将・沖縄海軍部隊指揮官〕の指揮所の通路には数百の死体が整然と並べられていた。遺体の多くには手当て済みの傷があった。皆同じ時間に死んだようにみえた。さらに注射で殺された形跡があった」事実を挙げ、「この種の行いは〔日本兵〕捕虜によって繰り返し報じられている」と述べている。

同記事の執筆者が気にしていたのは、こうした日本軍の自軍傷病者に対する冷酷な扱いよりもむしろ、本土決戦で味方の連合軍兵士が日本軍に捕らえられたときどう扱われるか、その撤退時に口封じのため殺されはしないかということであったろう。IB「日本の軍陣医学」は、そのことを匂わせる次の記述で締めくくられている。

〔1945年5月、ボルネオ島に進攻した〕タラカンの連合軍からは〔沖縄での〕この慣習に背く、有望な報告がきている。蘭印兵捕虜は日本軍司令部がフクカク〔複郭?〕地区から撤退するのに先立ち、傷者は糧食を与えられて連合軍の戦線へ行けと言われ、歩けない者は司令部地区の後方に残されたと述べている。

ボルネオの日本軍が実際に白人捕虜を解放したかはわからないが、もしかしたら敗色の濃い戦争末期の日本軍司令官の中には敗戦後の連合軍による責任追及を予測し、捕虜を殺さず釈放した者がいたのかもしれない。

米軍側はこれを「有望」とみて味方全軍に周知し、士気低下を防ごうとしたのではなかったか。IBはそうした日米両軍の思惑についての示唆も断片的ながら与えてくれる。