米軍を唖然とさせた日本軍の人命軽視
〜重傷病者には「自決」を要求

【特別公開】一ノ瀬俊也=著『日本軍と日本兵』3
一ノ瀬 俊也 プロフィール

ガダルカナルの医療

IB1946年3月号「日本の軍陣医学」によると、1942年8月から翌年2月まで続いたガダルカナル作戦は「間違いなく医療の要素がもっとも顕著に働いた、例外的な大作戦」であった。同記事には、

いくつかの戦闘の得点差はわずかだったし、〔日本軍による〕飛行場の再奪回もかろうじて防げたし、敵の若干の地上総攻撃は成功しかけたし、失敗はわずかな違いで成功に転じ得たし、連合軍の絶対的な海上優勢にもかかわらず米軍は飛行場を失っていたかもしれない──敵軍が健康状態を良好に保てていれば。

と彼の有名な陸軍参謀・辻政信(ガダルカナル島作戦を終始強気で指導、戦後の1950年に回想記『ガダルカナル』を執筆)が読んだら喜びそうなことも書いてある。

しかし敗退しジャングルへ追われた日本軍に「防虫剤はなく蚊帳はわずかで、アクブリン、キニーネによる有効な薬剤治療体制もなかった」し、兵が「治療を受けるため戻るのは奨励されなかった」のに対し、米軍は開豁地やヤシの森、稜線上の草原に陣取ったうえ「病人はジャングルからよく整備された野戦病院に送られ、休息と適切な治療を受け、状況が許せばすみやかに後送された」のだから、勝敗の行方はおのずと明らかであった。

日本軍のマラリア被害については、「明らかに日本軍の全員が島への上陸後4~6週間以内にマラリアで苦しみ……非常に悪性だった結果、死亡率は例外的にすさまじいものとなり、作戦終了までに部隊全体の四分の一を超えたかもしれない」と見積もられた。

米軍のみたガダルカナル島(以下、ガ島と略)日本軍の野戦病院は地獄そのものであった(日本兵捕虜の証言か)。

日本軍はガダルカナルに円滑に機能する野戦病院を作ることができず、病人の扱いは敷物か地面上に寝かせ、ときにわずかなヤシの葉ぶきの小屋を与えるというものだった。野外診療室の衛生はひどいものだった。病人は特に夜間、壕内の便所へ行くのをいやがったため排泄物が敷物のすぐ近くに積み重ねられ、雨が降ると差し掛け屋根の壕のすぐ近くまで流れてきた。キニーネその他の薬の供給は激減し、病兵は食塩水不足のため代わりにココナツミルクを注射されたこともあった。食料は極度に不足していてヤシ、草、野生の芋、シダ、タケノコ、そしてワニやトカゲまでもが非常糧食として食べられた。

ここで米軍は何とも異様な日本兵観を披瀝している。「この状況で興味深いのは、戦線の向こうで苦しんでいた多くの日本兵が、米軍にマラリアを植え付け続ける人間宿主(human reservoir)となっていたことである」。彼らにとっての日本兵とは、死病の病原体を溜め込み、まき散らしてくる「宿主」に他ならなかった。

マラリア以外にも食糧不足による脚気、腸炎が多発して日本軍に大損害をもたらした。「前線部隊に送る食料の盗みや荷抜きが多発したため、第一線の将兵は後方の兵よりもひどく苦しめられた」という。

負傷した将兵も「適切な治療施設がなく、常に包帯に雨が染みこみ、マラリア、脚気、腸炎のような悪疫が流行していたため、傷兵の死亡率は80パーセントを超えていたはずである。ガダルカナルから後送された傷兵の数は少なく、傷兵の大多数は死んだとみるのが妥当である」とされている。

IB「日本の軍陣医学」は、ガ島における日本軍の総戦死者数と死因を次のように見積もっている。

おそらく、ガダルカナルで死んだ日本兵のうち、三分の二は病気で死んだ。戦闘で死んだとみられる日本兵の数は1万を超えず、実数はもっと少ないはずである。ガダルカナルで我が軍と対峙した4万2000の日本軍のうち四分の一以下が戦死・戦傷死し、四分の一以下が撤退し、残りの半分以上──2万以上──は病気と飢餓で死んだ。対照的に米軍の死者・行方不明者は1500以下であった。

実際の犠牲者数は、ガ島の日本軍総兵力3万1400名中2万800名が「戦闘損耗」、その内訳は「純戦死」5000~6000名、「戦病に斃れた」者1万5000名前後、とされている。一方米軍の戦死は約1000名であった(防衛庁防衛研究所戦史室『戦史叢書 南太平洋陸軍作戦〈2〉ガダルカナル・ブナ作戦』1969年)。米軍側は日本軍の総兵力こそ過大視したものの、死因の割合についてはそれなりに正確に算定していた。

このように、ガ島の戦いは、「決定的であったか否かは別としても、医療の要素が米軍のはるかに犠牲の少ない勝利に貢献した」のであった。