米軍を唖然とさせた日本軍の人命軽視
〜重傷病者には「自決」を要求

【特別公開】一ノ瀬俊也=著『日本軍と日本兵』3
一ノ瀬 俊也 プロフィール

日本軍の遺体回収

日本人の心に太平洋戦争が悲惨な戦いとして刻印されている理由の一つは、補給途絶により見捨てられ飢死、病死する者が膨大だったからである。だが、IB1943年10月号「米軍観戦者による日本軍戦法の解説」が報じる戦場の日本軍は、決して兵士を見捨てる冷酷な軍隊ではなかった。この点は日本兵たちの有する死生観とも関係があろう。

死体の回収 日本軍は遺体の回収に多大の困難を感じている。彼らは傷者はおろか遺体回収のためにさえ、米軍陣地の数ヤードそばまで這い寄ってくる。死体は埋葬、または火葬されるため、殺害者数を見積もるのは難しい。

このように、前線日本軍は義務を果した味方兵士の遺体にはきわめて丁重で、万難を排して回収しようとしていた。這い寄ってきた兵の行動は上官の命令に従った結果とも、戦友愛の発露による美挙とも解釈できるだろう。

しかし、次の米軍兵士の回想を読むと、日本兵の間に戦友愛なるものは本当に存在したのかとさえ思う。

日本兵はおそらくジャングル内の細菌による手の皮膚病にかかっている。我々もそうだ。彼らは我々ほど野戦の衛生に気を使わない。不潔である。野戦病院を占領すると驚くほど汚れている。どうすれば我慢できるのかわからない。日本兵は死者には丁重だが、急いでいるときは傷病者を置き去りにしてしまう。もし彼らにまだ銃の引き金を引く力が残っていれば、そうすることを強く求められる。(IB1944年9月号「米軍下士官兵、日本軍兵士を語る」、強調引用者)

「死ぬまで戦え」という軍の教えを自ら実行した死者には実に「丁重」だが、生きて苦しんでいる傷病者への待遇は劣悪で、撤退時には敵の捕虜にならないよう自決を強要している。もはや「戦果」よりも「戦死」それ自体が目的化しているかのようである。

日本兵にとって戦友の命は軽いものだと米軍は判断した。戦後日本人の間には「日本軍の本当の強さの源泉は……友を逝かせて己一人、退却し、降伏できないというヨコの友情関係にあった」との見解がある(河原宏『日本人の「戦争」』1995年)が、米軍からみた日本軍像とは著しく異なる。

次に、日本軍の病者への態度、すなわち医療体制に対する米軍の評価をみていこう。

終戦後に出されたIB1946年3月号「日本の軍陣医学」は、日本軍の医療体制に対する総括的な評価を行っている。

米軍は「軍事作戦の圧力にともなう日本軍医療の崩壊は、南西太平洋における連合軍の飛び石作戦に対する、日本軍敗退の一因となった」と述べて医療の崩壊を日本軍敗退の一大要因と指摘、「衛生への配慮が勝敗を決めるうえでとくに重大であった作戦を、重要度の順に並べる」と「ココダ道、ガダルカナル、ブーゲンビル、西ニューブリテン、アドミラルティ、ラエ─サラモア、ブナ─ゴナ、そしてニュージョージア─レンドバ」であったという。

医療が戦の勝敗を決めるとはどういうことか。例えば、「ガダルカナル作戦での勝敗の差は、日本兵がマラリア、脚気、腸炎で弱って敗北が明らかになるまではわずかであった。ガダルカナルには4万2000人の日本軍がいたとされるが、その半分以上が病気や飢餓で死亡し、負傷者の80パーセント以上が不適切な治療、医療材料の不足、後送する意思と能力の欠如により死亡したとみられる」と説明されている。

IBが「もっとも医療的要素の影響を受けた」と指摘するココダ道作戦とは、日本軍が東部ニューギニアのゴナからココダ道を南下して要地ポートモレスビーを占領しようとした作戦で、1942年8月に開始され、各自が武器、弾薬、運べるだけの米を担ぎ、糧食の不足は現地調達で補うことになっていた。

作戦の開始当初3000人だった日本軍兵力は「多くの者が山登りの間に飢餓と脚気で死んだため、この困難な行軍を完遂した者は片手に満たなかった」。IBは「部隊全体で生き残った者は50人に満たなかったであろう。ほとんどの者は脚気や飢餓で、若干はマラリアで死に、戦闘で倒れた者は比較的わずかであった」と栄養・医療を無視した無謀極まる作戦の帰結を簡潔にまとめている。