「人の死を悲しいと思えない自分が怖かった」97歳、吉沢久子が語る戦時下の女性と暮らし

【戦後70年特別企画】

食べること、眠ることが十分にできない日々

B29が頭上を飛んでいても隣の家が焼けてしまっても、自分が生きるためには食べなければならないし、生活はしていかなくてはなりません。

配給も乏しく闇市で売っている食糧は高額すぎて常に手に入れることが難しい。当時の私の給料1ヵ月分と一升のお酒が同じ値段だったことには驚きました。どうしても甘いものが食べたくなって、手元にあったお金を全部使って高額な砂糖を買ったこともありましたね。

当時の日記を見ると、人間の生活の基礎になる、食べることと眠ることが十分にできなかったんだということがよくわかります。

 「ぜいたくは敵だといわれるけど、今、私の一番したいぜいたくは、二日間くらいぶっ通しで静かに眠ること。」(昭和20年6月1日)

「(七夕まつり)の笹につるしたあり合わせの紙で作った短冊には、カルピスのみたい、エビフライ、あんぱん、ショートケーキ、などなどたべものばかりが書いてあった。」(昭和20年8月7日)

きちんとした情報が入ってこなかったこともあるでしょうが、広島に原子爆弾が落とされた翌日でも、みんな食糧に思いを馳せているんですね。それくらい飢えていたんです。

配給や闇市では必要な食糧を手に入れることができないから、庭に種を植えて野菜を育て、食べられそうな草も一緒に食べていました。私がいま庭で野菜を一生懸命育てているのは、戦争の後遺症かもしれませんね。もうあんな暮らしは本当に嫌です。普通の営みができなかったからこそ、暮らしがすごく大事に思えて、家事評論家といういまの仕事につながっているのかもしれません。

60歳になってはじめて“自分の仕事”ができるようになった

戦前は女性に参政権も与えられていない時代ですから、仕事の選択肢は多くありませんでした。女は家事をやるか、仕事も事務職くらいでしょうか。私は仕事をすることで自分らしく生きられると思ったので、フリーの速記者として働きました。

戦争になると、会社に勤めていないと女性は軍需工場で働かなければいけない、とうことで、知り合いの紹介で鉄道教科書会社に入社しました。

戦争が激しくなってくると、東京を離れる人もいました。私も父がいる北海道に疎開することも考えましたが、当時は自分の仕事もありましたから。速記という自分の技術を生かして働けるのはやっぱり東京なんですね。それに古谷から留守番と戦時中の東京の記録を残すことを頼まれていましたし。当時は義務感もありました。