戦争の有名人 その子孫たちは「いま」【第1部】
東條英機 松岡洋右 廣田弘毅……
「戦犯の家族」と呼ばれてその名前を恨んだこともありました

週刊現代 プロフィール

「原則として靖国に祀られるのは兵隊、軍人の英霊です。その意味で、祖父はそもそも祀られる資格がない。また福岡と鎌倉の寺に祖父の毛髪を祀っているので、廣田家はそこにお参りをする。死んだ後まで、生前さんざん対立した軍人たちと一緒に祀られるのもどうだろうという気持ちもあります。あえて靖国神社に抗議するほどのことではありませんがね。

私には二人子供がおりますが、彼らの世代は曾祖父に関してほとんどなにも知らない。こうして段々関心が薄れていくのではないでしょうか……」

だが、いくら時が流れようと、私たち日本人が「戦後」を生き続けていることに変わりはない。

国際連盟脱退や日独伊三国同盟に関わった外交官で、A級戦犯被告ながらも公判中に病死した松岡洋右の兄の孫にあたる松岡満寿男氏(80歳)は、満州で育ち、戦後は国会議員も務めた人物。戦時から現代へと連綿と連なる歴史の証言者である。

「大叔父の洋右は私の名付け親でした。満州の満に、ジュネーブ(寿府)の寿。満州国ができたのが'32年、日本がジュネーブで国際連盟を脱退したのが'33年、そして'34年に私が生まれたんです。

私の祖父は洋右とともにアメリカにわたり、働いて洋右のための学資を稼いだ。洋右は日本に戻り外交官になりますが、祖父は向こうで亡くなってしまった。そこで洋右は私の父たち兄弟を学校へ行かせて、就職の面倒も見てくれたんです。父は洋右が満鉄の副総裁のときに満鉄に入りました」

満寿男氏は満州から引き揚げてきて「日本人というのは簡単に変節する民族だな」と感じた。

「戦時中は『鬼畜米英』と言っておきながら、戦争が終われば、手のひらを返したようになる。私たちも『戦犯の一族』ということで石をぶつけられるような扱いだった。

もっとも、戦犯の子孫として白い目で見られることよりも、戦後父がシベリアに抑留されたことのほうが辛かったです」

'40年から'41年に外務大臣だった洋右は外交の進め方をめぐって、当時の首相だった近衛文麿と対立することも多かった。だが、孫の満寿男氏は近衛の孫の細川護熙氏と親しい関係だという。

「私は自社公民・連合山口を敵に回して知事選挙を戦ったこともあり、衆院選ではどこの政党も入れてくれなくてね。そんなときに細川さんが『日本新党に来ませんか』と誘ってくれた。『祖父たちは仲が悪かったが、孫同士は仲良くしよう』とね。

松岡洋右という人物は誤解されているところも多いけれど、根っこにあるのは『五族協和』。アメリカともきちんと話をつけて中国問題も解決しようとしてた。最近、少しずつ洋右に対する歴史的評価が見直されるようになって、子孫として嬉しいかぎりです」

「戦犯」の血を引く者たちはそれぞれの胸に複雑な思いを抱きながら、いまも貴重な歴史の証言者として「戦後」を生きている。

第2部はこちら→

「週刊現代」2015年8月15日・22日合併号より


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