【高校野球100周年記念】消えた甲子園の怪物たち

史上初の完全試合選手や田中将大の同期
週刊現代 プロフィール

阿久沢の名前が関係者に深く刻まれるようになったのは、夏の県予選前の招待試合。PL学園と対戦し、のちに広島で活躍する金石昭人から右中間に本塁打を放った。そのスイングスピードをまのあたりにした当時PL学園の西田真二(元広島、現四国アイランドリーグ香川監督)は「ああいう選手がプロ野球選手になるのだな」と目を丸くしたという。阿久沢は夏の甲子園にも出場して2回戦で敗れた。プロ野球12球団があいさつに来たが、本人は大学進学しか考えていなかった。

「ドラフト1位候補に名前をあげてもらいましたが、プロで勝負する気持ちはなかった。結局、自分を信じられなかったんです。ひじや肩が常に痛かった。群馬大で続けた準硬式野球でも後半は投げられなくなり、30歳のときに動かなくなって手術しました」

保健体育の教員として勤務する勢多農林高では学校の特性を生かし、自分たちで芝生を植え、ブルペンを作った。

「今は監督として、選手がちょっとうまくなったり、勝てるようになったりするのが楽しい。プロで勝負できる子を育てるより、みんなで頑張って甲子園に出たい」

あれが人生の岐路だった

阿久沢とは対照的に、プロに行きたくても、行けなかったのが筑川利希也だ。'00年の春、全国制覇した東海大相模で優勝投手になった。しかし、夏の県予選で中指の爪が割れ、そこにマメもでき、5回戦の神奈川県立商工戦で敗退。このことが筑川の運命を変えた。

「春に優勝して当然、春夏連覇を狙っていました。でも夏は予選で負けてしまい、自分を支えてくれた周囲の方に申し訳なく思うと同時に、この先の野球人生をどうしようか、と悩んだ。春、夏続けて甲子園に出場したら、高校卒業後にプロで勝負しようという気になっていたかもしれませんが……。そこが分かれ道でした」

3年の夏が終わっても友人と遊ぶことなく、東海大で1年から登板するため、東海大相模の後輩と練習に励んだ。東海大には2学年上に、のちに巨人に入団する久保裕也がいた。すでにプロから注目されていた先輩右腕は、プロを目指した筑川のいい目標になった。

大学1年の秋にはベストナインと最優秀防御率のタイトルを獲得したが、2年の時にひじを痛めた。右ひじ側副靭帯損傷と遊離軟骨神経脱臼という選手生命にかかわる負傷。手術とリハビリに2年間費やし、復帰できたのは4年の春。とはいえ全盛期の調子には戻らず、大学卒業時も、プロ入りは見送られた。

ホンダに入社して2年目の'06年、ドラフトで指名される可能性はあったが、横浜に指名された吉原道臣を優先的に送りだしたい、というチーム方針もあり、筑川は断念。