【高校野球100周年記念】消えた甲子園の怪物たち

史上初の完全試合選手や田中将大の同期
週刊現代 プロフィール

結局、完全には野球からは離れられない、と感じ、銀行を2年余りで退職しました」

今年1月から、佐賀県の中原特別支援学校で講師となり、高校教師になる道を模索している。野球部の監督になり、甲子園を狙うつもりだ。

副島と同じく「日本一練習した」と口にする森尾和貴は、西日本短大付のエースとして'92年、夏の大会で5試合で4完封し優勝。失点1、防御率0・20という歴史に残る快投を演じた。

「福岡県大会を勝ち抜いた時点で『全国制覇をする』と心に誓いました。大会前の関西遠征で、大阪代表の常連、近大付やPL学園に勝った。星稜の松井秀喜が明徳義塾戦で全5打席敬遠され、そのことに注目が集まった大会でしたが、優勝しか頭になかった僕は内心、『強いところは、負けろ』と思っていました。

練習は本当にキツかった。学校での練習以外にも早朝6時から1時間ジョギングをして、夕食後にも午後10時まで坂道ダッシュ。打撃練習では、右打ちだけど、左打ちも同じくらいやることで体幹を鍛えました」

内外角に投げ分ける精密機械のような制球に加え、甲子園のマウンドとの相性の良さも手伝い、球速は県大会の時より7キロアップし、142キロまでのびた。森尾の快投には、プロも当然、注目した。

「あるスカウトの方から『長嶋監督が森尾君を見ているよ』と聞きましたが、プロですぐに結果を残せるか、といったらそこまでの自信はなかった。3~4年やって、自信をもってプロに行けばいい、と考えていました」

新日鐵八幡では入社5年目にひじに痛みを感じた。骨が変形し、神経を圧迫。箸も握れなくなり、手術を余儀なくされる。

「はじめて、自分が思ったところに投げられない辛さを味わった。甲子園の優勝投手という看板を背負う中で、結果を出せないと、『優勝投手がなんしよんか!(何しているんだ)』とか『新日鐵やめろ』と厳しいヤジが飛んできました。

29歳のときに野球部は廃部になり、社会人野球は10年間で終わりました。松井や井口ら同級生がプロで活躍する姿を見て純粋にすごいな、と思っていましたが、そのことが『僕も高校卒業の時にプロに行っておけばよかった』という後悔にはつながりません。僕が甲子園でした経験は、誰もができることではない。自分の野球人生には満足しています」

体重が100kgを超えて甲子園当時の面影はすっかりなくなった森尾は、そう言って笑顔を見せた。