【高校野球100周年記念】消えた甲子園の怪物たち

史上初の完全試合選手や田中将大の同期
週刊現代 プロフィール

亜大では1年春から先発出場したが、2年時に左手首を骨折。4年になるまで公式戦に出られなかった。甲子園を沸かせた男は、いつしか表舞台から遠ざかっていた。

「亜大の寮に入る時、体重が97kgと甲子園の時より10kg重かった。先輩から叱られ、高くなりかけた鼻をへし折られた。それでも寮に何とか馴染めたのは、あの決勝で負けたおかげです。もし狙い通り本塁打を打っていたら、新しい環境で試練に直面しても我慢しきれず、今頃、野球を辞めていたと思う」

7月22日の都市対抗1回戦、トヨタ自動車戦は代打だった。プロ入りの夢も、もうない。静かにバットを置く日まで、本間は都市対抗の優勝を目指して努力を続ける。

奇跡の逆転満塁弾

あの決勝戦の翌年にまた、伝説が生まれた。佐賀北高の3番・副島浩史は'07年、夏の大会決勝で3点を追う8回、1死満塁で広陵高のエース野村祐輔(現・広島)のスライダーをとらえ、左翼スタンドに逆転満塁弾。NHKの実況、小野塚康之アナウンサーが「あり得る最も可能性の小さい、そんなシーンが現実でーす!」と叫んだ有名なシーンだ。副島が明かす。

「打席に立つとき、最高の結果はホームランとイメージしていた。打った後、ベースを回るときは途中まで全力。レフトの選手がボールを見送るのを見てからは、記憶がなくなった。映画にしても出来過ぎなぐらい、ドラマチックでした」

甲子園未勝利だった佐賀北にとって、目標は「1勝」。そんな公立高が、宇治山田商戦で引き分け再試合、準々決勝の帝京戦でも延長13回を戦い、勝ち上がった。佐賀北高が戦った73イニングは史上最多記録だ。

「佐賀北は進学校なので、練習は夜7時半まで。試験の1週間前は部活動が完全にストップです。でも練習終了後、学校の電気が消されても、スーパーの明かりを利用して素振りを繰り返した。日本一やってきた自負はある。甲子園で打てたのも、そういう練習の賜物でした。甲子園行きが決まってから現地に入るまでの10日間も、冬場にやるインターバル走を朝8時から続け、それが暑さ対策にもなりました。

百崎敏克監督は、帝京戦の円陣で、こう言いました。『開幕戦で勝利した。引き分け再試合も、ナイターも経験した。あと何を経験しとらんか』と。『サヨナラですかね』と返答したら、『サヨナラで勝て』と言われ、その通りになった。まさに神がかっていましたね」

このまま辞めていいのか

副島はその後、福岡大に進学。3年秋のリーグ戦で本塁打王と打点王の2冠に輝いたが、佐賀銀行に就職して、一度野球からは離れた。

「大学で右肩を手術して以来、ベース間の距離を投げることにも自信がなくなったんです。でも、『高校で日本代表になった自分が、あっさり野球を諦めて、他の代表メンバーに顔向けができるのか』と自問しました。