【高校野球100周年記念】消えた甲子園の怪物たち

史上初の完全試合選手や田中将大の同期
週刊現代 プロフィール

「プロへ行くとしたら、高校卒業のあのタイミングでしょう。でも、僕は中学で7番しか打てなかった打者。池田に入るときも蔦先生に誘ってもらったのではなく、自ら志願して入部させてもらった。潜在能力は決して高くないんです」

早大、日本生命と進んで野球を続けたが、あの夏ほど江上に注目が集まることは、もうなかった。33歳で引退。現在は沖縄・浦添営業部長だ。

「いつも『野球に置き換えたらどうだろう』と考えて仕事をしています。たとえば、契約をとるまで油断は禁物だ、ということも、あのPL戦が教えてくれました」

2度の全国優勝と、苦い敗戦を知る江上は、息子にもメールで伝えた。

「平常心をどう保つか、油断をどう見抜くか、という話です。チーム全体を見渡し、後方支援しなければならない息子には私と同じ失敗はしてほしくないんです」

この夏、江上は「球児の親」として、久々に甲子園に戻る。

駒大苫小牧の「メガネの主将」

早実に敗れ、己を知った男がいる。'06年、夏の決勝再試合を演じ、斎藤佑樹がいた早実に敗れた駒大苫小牧の主砲・本間篤史はJR北海道の駅員をつとめながら野球を続ける。「メガネの主将」と言えば、思い出す人も多いだろう。

入学した年の夏に初の全国制覇を経験し、2年から4番として'05年夏の優勝に貢献。73年ぶりの夏の大会3連覇に挑んだ大会直前、田中将大から主将を引き継いだ。コンタクトをつけるのが苦手で、今もメガネをかけている本間が振り返る。

「将大(田中)が、主将としての取材、投手としての取材の両方を受けるのは疲れがたまる、という香田誉士史監督の配慮でした。僕は練習では中心的存在でしたが、感覚的には将大のチーム。あの時期の交代に戸惑いはあった。でも将大から『俺もお前のチームだと思っている』と言われて、楽になりました」

早実のエースは斎藤。目立ちたがり屋の本間は、あの試合で必要以上に力んでいた。

「決勝では、三木悠也、三谷忠央が斎藤から本塁打を打った。僕も目立ちたいと思い、本塁打にこだわりました。でも2試合で5三振。チームを勝たせる4番の仕事ができなかった。個人の欲を出したらうまくいかない、典型的な例でした」

亜細亜大を経て、JR北海道に入社した1年目の'11年、日本ハムに入団した斎藤と札幌で会食する機会があり、伝説の決勝戦にも話が及んだ。

「延長15回にもつれ込んだ1戦目、僕が最後の打者でした。僕は直球を待っていましたが、斎藤がフォークを投げてきて三振。普通は直球勝負の場面です。斎藤は『前年の神宮大会で(本間に)フォークを打たれたからその球で勝負した』と。斎藤の意地を感じました」