【二宮清純レポート】ノーコンピッチャーから打者転向で開眼! 雄平(ヤクルト)「一度死んだ男」の意地

週刊現代 プロフィール

もがき苦しむ後輩を、同じサウスポーの石川雅規は、こう見ていた。

「彼の場合、器用過ぎるんです。いろいろなフォームで投げることができる。ただ、今日良くても明日悪かったら、すぐに変えてしまう。〝もう少し辛抱強くやればいいのに……〟と思えるような面もありました」

妻が背中を押した打者転向

不遇の時代、3年間にわたって雄平を見守ったのが元二軍投手コーチの松岡弘である。

「彼にはひとつ欠点がありました。手が小さくてフォークボールがうまく投げられないんです。それでカーブを磨かせました。カーブがあれば、ストレートが少々甘くなっても、縦の変化で相手のタイミングを外すことができますから。

ところがカーブをモノにする前に僕が現場を離れてしまった。彼には申し訳ないことをしたと思っています」

入団6年目の'08年と翌'09年、雄平は一軍で1勝もあげることができなかった。最後はキャッチボールをする相手もいなくなった。さながら「歌を忘れたカナリア」である。

出口の見えないトンネルの中で、雄平は何を考えていたのか。

「もう元に戻すのではなく、新しいものをつくるしかない。3年目以降は、ずっとそんな思いでやってきました。

しかし、結果がついてこない。正直言って、この時期は野球をやるのが怖かった。マウンドに上がってもバッターと戦うのではなく、自分自身と戦っているような感じでした。それじゃピッチングになりませんよね」

雄平にとっての転機は'09年の秋である。当時の監督・高田繁の希望もあって野手転向を打診されたのだ。

そのあたりの事情を知るのが当時の二軍監督・猿渡寛茂である。

「球団の方針は〝もうピッチャーはダメ。野手に転向するなら、あと3年は面倒を見る〟というものでした。僕自身も野手転向には賛成でした。

あれは1年目の新人合同自主トレです。トスバッティングを見ていたら、バットの扱い方が非常にうまい。しかもコンパクトにバットが出る。これは野手向きだと思いました。しかし、いきなり野手にするわけにもいかない。それでピッチャーでスタートさせたんですが、どんどん悪くなっていって、もうピッチャーじゃ無理だとなった。

当初は〝ワンポイントリリーフ兼バッター〟としても考えていましたが、最後は本人が〝野手で行きたい〟と決心したようです」