【二宮清純レポート】ノーコンピッチャーから打者転向で開眼! 雄平(ヤクルト)「一度死んだ男」の意地

週刊現代 プロフィール

ドラ1の期待と重圧

東北高から「高校ナンバーワン左腕」との評価を得てドラフト1位でヤクルトに入団した雄平が、バッターに転向したのは6年前の2009年オフである。

「もうピッチャーとしてはやり尽くした感がありました。(ピッチャーとしての)最後の2年間は一軍のマウンドにほとんど上がれませんでしたから……」

とはいうものの、彼はピッチャーとして箸にも棒にもかからなかったわけではない。ルーキーイヤーの'03年には5勝(6敗)をあげている。続く'04年は4勝(2敗)、'05年も4勝(4敗)。入団以来、5年連続で勝ち星が途絶えることはなかった。

入団当時の二軍監督・小川淳司(現シニアディレクター)の回想。

「彼は小柄でも体に力があった。期待を込めて二軍の開幕戦に先発させたんです。相手は巨人で、調整のため、清原和博がスタメンに名を連ねていた。その清原のバットが、おもしろいように空を切りました。最大の武器は、思いっきり腕を振って投げるスライダー。ベース前でワンバウンドしているのに清原は対応できなかった。それくらいキレがあったということでしょう」

ただ、欠点もあった。制球難である。キャッチャーが構えたミットの位置に、なかなかボールが収まらないのだ。

再び小川。

「右バッターのインコースに食い込むクロスファイヤーのストレート。これは素晴らしかった。ただ、食い込み過ぎてボールになる。逆にシュート回転のボールはベース板の上を通過するので、これは(右バッターにとっては)打ち頃のボール。甘く入ったところをよく狙われていました」

雄平が背負った「16番」の先輩・石井一久もプロ入り当初はノーコンだった。ところがキャリアを重ねるにつれて解消していき、日米で182もの白星を積み上げた。

ノーコンは決して〝不治の病〟ではない。しかし、誰もが完治できるわけでもない。残念ながら雄平は後者だった。

努力が足りなかったのか、いや、そうではない。研究心が欠けていたのか。そうでもない。真相は、その逆だった。

「まじめ過ぎたのが悪かったのかもしれない」

そう語るのはバッテリーを組んでいた、殿堂入り捕手の古田敦也だ。

「彼は本当にまじめで練習熱心。探究心も人一倍です。なにしろ、暇さえあればブルペンでボールを握っているような男ですから……」