【戦後70年特別企画】
「昭和陸軍」の失敗。エリート軍人たちは、どこで間違えたのか

敗戦は戦う前から見えていた
週刊現代 プロフィール

対して、武藤は『一撃で中国を屈服させられる』と豪語。戦線の拡大か不拡大かで、陸軍中央を巻き込んだ大論争に発展しました。一夕会のメンバーで、武藤と同期の田中新一も武藤に同調。結局、武藤は石原を排除して実権を掌握。石原は失脚しました」

しかし、石原の予言通り、国民政府は頑強な抵抗を繰り返し、日中戦争は泥沼化していく—。

'36年11月、日本は日独防共協定を調印。'38年4月、近衛文麿内閣は国家総動員法を公布。ついに国家総動員体制がスタートした。'39年9月、ドイツがポーランドに侵攻し、欧州で第二次世界大戦が始まった。武藤は永田や自分が考えた通りの展開になったとして、'40年6月、「綜合国策十年計画」を策定する。

「この中で武藤は『大東亜協同経済圏』という言葉を使い、日本、朝鮮、中国としていた自給自足圏を東南アジアにまで拡大する構想を初めて掲げました。これが後の大東亜共栄圏構想です。

第二次大戦勃発に合わせて調査し直したところ、自給自足のためには石油やボーキサイト、スズ、石炭や鉄も足りないことが判明。それで東南アジアでも資源を確保しようとしたのです」

南方にはイギリス領が多く、南方進出はイギリスとの戦争を意味した。一方で、武藤は対米戦は絶対避けるつもりだった。

「武藤は『アメリカは物資と財力で世界一であり、年間軍事費は約140億円(日本は20億円)で日本はかなわない』、『対処を間違えば日米戦争を太平洋上に始めて、世界人類の悲惨なる状態になる』と述べています」

そこで武藤が考えたのが、ナチスドイツにイギリスを倒してもらい、欧州でのアメリカの足場を崩すことだった。

日本が日独伊三国同盟を結んだのはそのためだった。しかも、武藤は、三国同盟にソ連が加わった4ヵ国連合を結成して、アメリカを封じ込めようと考えていた。実際、ドイツは'39年8月に独ソ不可侵条約を結んでいた。

「日本は'41年4月、日ソ中立条約を結んだのですが、それから2ヵ月後に、何とドイツが不可侵条約を破棄してソ連と戦争を始めたのです。

武藤は、イギリスに加えソ連とも戦争する二正面作戦は『ヒトラーの頭が狂わない限りあり得ない』と考えていたが、そのまさかが現実になった。このため武藤はドイツと距離を置くことを主張しますが、田中は『日本とドイツでソ連を挟み撃ちにすべき』と反論し、激しく対立しました」

頼みのドイツとソ連が戦争を始めたのだから、大東亜共栄圏構想は根底から覆ったも同然。しかもソ連はイギリス、アメリカと協調し、逆に三国同盟包囲網が整った。