【戦後70年特別企画】
「昭和陸軍」の失敗。エリート軍人たちは、どこで間違えたのか

敗戦は戦う前から見えていた
週刊現代 プロフィール

'31年12月に発足した犬養毅内閣では、一夕会の政治工作により、一夕会が推す荒木貞夫が陸相に就き、永田も陸軍省ナンバー4の情報部長に就任。一夕会系幕僚が陸軍の要職をほぼ独占してしまった。陸軍中央は、直ちに関東軍の全満州占領や満州国建国の方針を承認しました」

さらに、'32年5月、青年将校が犬養首相らを殺害する5・15事件が発生。政党政治は終焉を迎える。'33年には満州国独立を巡り、日本は国際連盟を脱退した。

陸軍の主流派になった一夕会では権力闘争が激化。皇道派と統制派に分かれた内紛のなかで、永田は執務中に斬殺される。

永田の死後は、石原と武藤が永田の国家総動員構想を推進していく。'36年、皇道派の青年将校らによる反乱「2・26事件」が起きたが、石原、武藤は二人三脚で鎮圧する。

「永田の構想を直接引き継いだのは武藤でした。武藤は永田の構想に基づき、'32年に誕生した満州国とは別に、華北地域に親日の傀儡政府を作って、華北の資源を確保しようとした。いわゆる華北分離工作です。

武藤が資源確保を急いだのはドイツでナチスが政権を取り、ベルサイユ条約を破棄して再軍備を行ったことが大きい。第二次世界大戦が現実味を帯びていたのです」

読みはことごとく外れ…

ところがこれに待ったをかけたのが石原だった。石原も当初は華北分離工作を支持していたが、途中でそれを止める。理由は、ソ連の存在だった。

「満州国と華北に接するソ連極東軍が、軍備を大幅に増強していたのです。華北分離工作を続けると、危機感を持ったソ連が介入して戦争になる恐れがあると危惧した。

ソ連との戦争になれば、アメリカから物資を輸入せざるを得ません。しかし華北分離を進めると、中国に権益を持つ英米との関係が緊迫し、石油の輸入も受けられない。よって自重すべきだというのが、石原の考えでした」

しかも石原は、たとえ欧州で次の大戦が起こったとしても、日本は介入すべきではないという立場だった。

「しかし、武藤は欧州で大戦が起これば必ず日本も巻き込まれると主張。華北分離工作を止めてしまうと、大戦の準備ができなくなるとして石原と鋭く対立したのです。

'37年7月、盧溝橋事件が勃発し、日中戦争が始まりました。石原は速やかに事態を収拾させようとします。石原は、華北には北京があるので、国民政府が絶対に屈しない、必ず長期戦になると予想していました。