【戦後70年特別企画】
「昭和陸軍」の失敗。エリート軍人たちは、どこで間違えたのか

敗戦は戦う前から見えていた
週刊現代 プロフィール

石原らの謀略、越権行為に対し、当時の若槻礼次郎内閣は戦線の「不拡大」を決めたが、関東軍はそれを無視して戦線を拡大。陸軍省の軍事課長だった永田も、石原らの行動を支持した。

満州事変は、永田を中心とした一夕会の周到な準備によって遂行されたものだったのだ。

「陸軍きっての俊英と知られた永田は第一次世界大戦前後の6年間、ドイツなどに駐在。大戦の実態をまざまざと見ました。

人類史上初の総力戦となった第一次世界大戦でドイツが負けたのは、資源が自給自足できなかったため。次の世界大戦はさらに機械化が進み、資源や労働力が必要になると確信した永田はドイツの轍を踏まないよう、資源、機械生産、労働力のすべてを自前で供給できる体制を整えねばならないと危機感を募らせた。

永田の目には、敗戦で過重な賠償を課されたドイツが、次の大戦の発火点になるのは必至だった。そこに日本は必ず巻き込まれる。その時に備えて国家総動員体制を早期に整えなくてはならないと考えたのです」

だが、当時の日本は多くの物資をアメリカからの輸入に頼るなど、自給自足には程遠かった。

「そこで永田が考えたのが中国の満州と華北、華中の資源を確保することでした。当時、中国では反日ナショナリズムが盛り上がり、蒋介石率いる国民党政府が中国の統一を目指して北伐を実施。この動きに永田らは、日本の資源戦略が脅かされるとして安全保障上の危機感を強めた。永田や石原が満州事変を起こしたのは、そうした危機感によるものでした」

繰り返される内紛

そんな一夕会の構想とは逆に、当時の日本政府は、第一次大戦の戦禍を踏まえて結成された国際連盟の常任理事国として、国際協調を模索していた。

「この頃の一般世論の感覚は、いまの日本人の感覚と近かった。歴代内閣はワシントン条約など様々な国際条約を結び、平和を保つために国際協調路線を進めていて、政党政治はそれなりに安定していました。

一夕会からすると、とにかく波風をたてまいとする内閣、政党政治家はあまりに無知。いつまでたっても国家総動員体制はできず、日本は次の大戦で滅ぶか、三流国に転落すると、危機感が強まる一方だった」

そうして、永田らは政党政治家にとって代わり、自分たち陸軍の手で政治を支配しようと動きだす。

「彼らは『統帥権の独立』と『陸海軍大臣武官制』を使って内閣に執拗な恫喝を繰り返し、屈服させていきました。