7月4日、北朝鮮が日本人特別調査委員会を立ち上げてから、丸1年が過ぎた。だが、拉致被害者の帰国はなお遠い。それは、国防相粛清の影響が大きいという。「平壌奥の院」で何が起こっているのか。
「玄永哲前人民武力部長(国防相・享年66)は、軍事裁判を経て処刑した—」
北朝鮮の朝鮮労働党幹部が初めて、玄永哲問題の真相について、重い口を開いた。
5月13日、韓国政府の情報機関である国家情報院が韓国国会に、「玄永哲処刑」を報告。現役国防大臣の処刑情報に、世界に衝撃が走った。
この際、本誌はある方法により、国境を挟む「中国」を経由する形で、信頼できる人物を通して、朝鮮労働党幹部に話を聞いた(6月6日号で既報)。
その幹部は、5月9日にモスクワで開かれた対独戦争勝利70周年記念軍事パレードに参加予定だった金正恩第一書記が、これに参加できなくなったことが、玄永哲が人民武力部長を解任された原因だと説明。その一方で「処刑説」は否定した。
今回、7月4日に、北朝鮮が日本人特別調査委員会を立ち上げて1周年にあたるのを機に、再び前回と同様の手法で、この幹部に話を聞いた。すると幹部はついに、玄永哲前人民武力部長の処刑に言及した。合わせて、日朝交渉の最前線についても語った。以下は、一問一答である。
—改めて聞くが、玄永哲人民武力部長は、なぜ解任されたのか。
「玄永哲は4月中旬に、5月の金正恩第一書記のロシア訪問の準備のために、モスクワを訪問した。出国前に、金第一書記の面前で大見得を切って、4つの約束をした。
第一に、金正恩第一書記とプーチン大統領との単独の朝ロ首脳会談の実現。第二に、5月9日の軍事パレードで、金正恩第一書記を、中国の習近平主席と共に、プーチン大統領の両サイドに立たせて特別扱いすること。
第三に、ロシアから朝鮮への、十分な経済援助の獲得。第四が、ロシア製ミサイルを朝鮮に売却してもらうことだ。
ところが、玄永哲部長はあろうことか、このうちただの一つも、ロシア側に確約させられないまま、帰国したのだ。
金正恩第一書記が問い詰めると、ベラベラと偉そうに言い訳をして開き直った。それで金第一書記が激昂し、『引っ捕らえろ!』と命じたのだ」
—拘束後は、どうなったのか?
「直ちに拷問にかけられ、厳しい取り調べを受けた。
その中で、恐るべき疑惑が浮かび上がった。それは、5月に予定していた金正恩第一書記のロシア訪問の際に、同行することになっていた玄永哲が、金第一書記を暗殺する陰謀を企てていたのでは、というものだ。
しかも、金平日駐チェコ大使が共謀していた疑惑まで噴出したのだ」
金平日は、1954年に故金日成主席と、後妻の金聖愛夫人との間に生まれた、故金正日総書記の異母弟である。'74年に金正日総書記との後継者争いに敗れ、'79年にユーゴスラビアの北朝鮮大使館に赴任。以後、ハンガリー大使、ブルガリア大使、フィンランド大使、ポーランド大使を歴任。今年1月に、17年間駐在したポーランドを離れてチェコ大使に赴任した。
金日成総合大学を卒業し、護衛司令部、総参謀部などで勤務した関係から、朝鮮人民軍での人望も厚い。平壌では、統治能力の乏しい金正恩第一書記に代わる「金平日待望論」が、にわかに持ち上がっているという。