【F1の帝王・フェラーリ(2)】人生を賭けた車造りで、経済危機やテロにうち沈むイタリア国民を元気づけた

福田 和也

不幸な事故が続いてもレースに全てを注ぎ込んだ

スクーデリア・フェラーリが順風満帆であったわけではない。
1957年3月、モデナのサーキットでフェラーリのトップドライバー、エウジェニオ・カステロッティがわずか2周でクラッシュして死亡した。

同年五月、公道レースのミッレ・ミリアで、フェラーリに乗っていたデ・ポルターゴが、タイヤをバーストさせてマシンごと観客席に突っ込んだ。ドライバーを含む11人の命が失われ、21人が重軽傷を負った。犠牲者のうち5人は幼い子供だった。

エンツォは過失致死および傷害の罪で告発されたが、無罪となった。
翌年のフランスグランプリでは、ルイジ・ムッソが、ドイツグランプリではピーター・コリンズが事故死した。

エンツォは公の場に姿を見せなくなり、オフィスにこもって指令を出すようになった。
しかし、どれだけ不幸な事故に見舞われても、車を造ることとレースに挑むことだけはやめなかった。

これこそエンツォが自分のもてるもの全てを注ぎ込んだ、人生を賭けた蕩尽だったのだ。
レースへの過剰な投資や労使紛争から経営危機に陥ったフェラーリは一九六九年、イタリア最大の自動車会社、フィアットの傘下に入った。

しかし、それによってフェラーリが失われることはなかった。1970~80年代、ニキ・ラウダ、ジル・ビルヌーブといった天才ドライバーを得て、第二の黄金時代を迎えた。
エンツォの蕩尽が、経済危機やテロでうち沈むイタリアの国民を元気づけたのである。

1988年8月14日、エンツォ・フェラーリは90歳の生涯を閉じた。
その約1ヵ月後の9月11日、イタリアグランプリで奇蹟が起きた。

優勝を確実視されていたマクラーレンのプロストがマシントラブルで脱落、さらにゴールまで2周というところで、セナがスピン。
フェラーリの2台がゴールを突き抜けた瞬間、スタンドを埋め尽くす十万の観衆は赤い狂乱の渦と化したのだった。

『週刊現代』2015年7月11日号より


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