〈二〇〇四年三月十日。事件から七年目の二十一歳の春、僕は六年五か月に及んだ少年院生活を終え、社会に出た〉
7年足らずの更生期間がはたして十分なものだったのか、本人自身は言葉を記してはいない。
退院後、およそ1ヵ月間の東京でのホテル暮らしを経て、更生保護施設に入所。派遣会社に登録し、最初に紹介された仕事が、オフィスでの荷物運びだった。
〈人生初の労働だった。キツかった。とにかくキツかった。肉体的にも、精神的にも〉
ビル清掃や廃品回収の仕事などをするうち、更生保護施設内で「元少年A」であるという身元がバレて、身を隠すシーンもある。そんな彼に大きな転機が来る。
〈二〇〇四年五月中旬。僕は東京を離れ、最終居住先である篤志家のYさんの家に移ることになった〉
しばらく後、プレス工として働きはじめ、'04年いっぱいで保護観察期間が終わってからは、Yさんの家を出て職場の近くで独り暮らしを始める。もちろん、Aにとって初めての独り暮らしだ。Yさん夫婦や弁護士のサポートを受けながら仕事をこなす日々の中、〈ある抑え難い想いが、徐々に熱を帯び始めた〉。
〈事件から八年。僕は、他人が自分に着けた〝色〟をすべて刮ぎ落とし、今度は自分で自分に〝色〟を着けるために、長い旅に出た〉
食事に興味がなく、カップラーメンと冷凍食品のみの食生活。休日はジョギングと図書館通い。仕事を辞めた彼は、貯めたカネを持って独り暮らしをしたアパートを出る。
彼はアパートの退去手続きに来た不動産業者とのやりとりを詳細に綴っているが、もちろん、その業者は相手が少年Aであったことを知らない。
カプセルホテルに泊まりこむ生活をしばらく続けた後、'05年の冬、寮付きの建設会社で契約社員として働き始める。しかし'09年6月、リーマン・ショックの余波を受け解雇。〈突然解雇を言い渡された時にはさすがにショックを受けた〉。その後は日雇い労働を転々とする。
〈この時期の記憶は断片的にしか残っていない。おそらくストレス性の健忘ではないかと思う。僕は過度にストレスがかかるとしばしば記憶がトンでしまうことがある〉
'09年9月、少年院で覚えた溶接工の仕事になんとか就いた。そしてこの時期に、三島由紀夫と村上春樹を片っ端から読み漁ったという。この手記の文体にも、その影響が色濃く表れている。