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目を見て話せない「コミュ障」には「社会を突き動かす能力」がある!

『コミュ障 動物性を失った人類』前書き

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現代の病巣にメス!

最近、学校や会社の中で人と上手に話ができない、他人の話をちゃんと聞けない人が目立つという。相手の目を見て話ができない、思い込むと聞く耳を持たなくなる……。いったいコミュ障の人とはどういう人なのか。

じつは、コミュ障の人には他の人にはない社会を突き動かす能力が備わっているという。ますます住みにくくなってきた現代社会を生き抜くための方策を思案する。

コミュ障の人は誤解されている

コミュ障の人は、他人の気持ちを理解する能力に欠けているとか、コミュ障の人は社会性に乏しいとよくいわれる。

しかしそういう通説は、じつは誤解ですよというのが本書のメッセージの一つである。その上で、どうしてコミュ障の人が生まれるのかを考えるのがねらいである。

コミュ障とは、言わずと知れたコミュニケーション障害を略した表現にほかならない。ただし省略形といっても、ただ単に文字数を節約しただけではない。むしろ「コミュ障」という単語自体で、独立した意味を指し示す表現でもあると私は考えている。

というのも、そもそもコミュニケーション障害というような障害が、世の中に存在するかどうかがまだよくわかっていないからである。

なるほど、知的障害というのなら、はっきりと診断可能である。知能テストによって計測される知能指数(IQ)の値が判断基準となるからだ。一言語障害も同様だ。視覚障害、聴覚障害もしかり。視覚障害、聴覚障害もそれぞれ視覚、聴覚にかかわる感覚系の機能不全と原因がはっきりしている。

しかしコミュニケーションに障害があるといっても、いったいどのようにしてそれを測ったらいいのか、はなはだ心もとない。

そもそも、どういうコミュニケーションが適切なもので、どういうものが不適切なのか?

それにもかかわらず、「あの人はコミュニケーションの能力に若干問題があるのではないか」とか、「自分は他人より意思疎通をはかるのが劣るのではないか」といったふうなことを近年、耳にすることが多いのが現実だ。そういう人をコミュニケーションの技能に何がしかの問題をかかえた人、として総称しよう。そのレッテルが「コミュ障の人」というわけである。

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具体的には、どういう人々を指すのか。

世の中では、他人と会話すること自体に苦労する人々を指していうことが多いかもしれないが、ここではもっと範囲を広げている。

たとえば、自分の主張を一方的にまくしたてるものの、周囲の発言にはまったくといっていいほど聞く耳を持たない。周囲の雰囲気を察することもなく、まったくマイペース(いわゆる空気が読めない輩、ひと昔前にKYといわれた人々) 。

他人に対しては、気持ちを察することなく歯に衣きせずに思うことをズケズケいうくせに、少しでも自分に都合の悪いことをいわれると、すぐにキレる人。

すごく思い込みが激しく、他人のいうことにまったく関心を示さない人。

もうおわかりだろう、みなさんの周りにも一人や二人、思い当たる人は必ずいるはずだ。

いわゆる「お騒がせ」といわれ、「困ったちゃん」とレッテルを貼られる人々もコミュ障に含まれる。

含めた上で本当は、そういうコミュ障の人は誤解されているのですよ、ということを示すことが本書の目的の一つである。

誤解の果てに、ひきこもってしまう人々すら少なくない。また、「私自身そうだ」という人もおられるかもしれない。事実、自分がコミュ障であることに悩む人が増えている、という話も耳にするようになってきた。

では、どう誤解されているのか?