大手芸能プロダクションを辞め渡米。モデルではなく「俳優」としてニューヨークで挑戦---俳優・本田真穂【前編】

ニューヨークを舞台に「挑戦」する日本人
公文 紫都

「芸能界の仕組みを教えてやる」と言われ、オスカー所属を決める

芸能活動は、大学入学後から始めました。高校時代は特にアクションは起こさなかったものの、芸能界への興味はあり、スカウト時に渡された名刺はすべて保管していたそうです。もらった名刺の中から、候補を3つに絞りました。最終的に所属を決めたオスカープロモーションは、2番目に連絡を入れた先だと言います。

「他にどこの事務所に行っているんだと社長に聞かれ、素直に答えたら、『芸能界の仕組みを教えてあげよう』と言われて。社長いわく、『お笑いは吉本だろ、男はジャニーズだろ、女はオスカーなんだよ』と(笑)。まだ18歳ですからね、そんなもんなんだ・・・と思い、オスカープロモーションに入ることを決めました」。

こうして晴れてオスカープロモーション所属のモデルとなりましたが、母親の職業である銀行員への憧れがあったため、事務所に入った直後は、「水着にはなりません!」と言い張っていたそうです。しかし、事務所側の思惑は別。いつの間にか名門、「東レ水着キャンペーンガール」のオーディションを受けることになり、結果合格しました。本田さんは当時のようすを、「ペースは完全に向こう(事務所側)でしたね」と笑って振り返ります。ロサンゼルスでの撮影を終え、本格的に芸能活動が始まりました。

実は東レの水着キャンペーンガールとして採用されるまで、父親には芸能活動を始めることを隠していたそうです。「この仕事なら、コンプレックスだった背の高さも生かせるし・・・と父を説得したら、『そんな理由でやっちゃダメだ!』と怒られてしまって。でも私が、『本気でモデルという仕事に取り組みたいと思っている』と力強く説明しているうちに、『それなら構わない』と許してくれました。私にちゃんと意思があるのかを確認したかったんだと思います」。

モデル業を始めるまでは、174cmある身長がコンプレックスだったという本田さん。身長を生かせる仕事に就き、周りも背の高い女性だらけになると、次第にコンプレックスは解消されていきました。

芸能活動を一時休止、留学を経て、芸能界に居続けることを決めた

芸能活動を始めてしばらくしてから、本田さんは一時休止を決めました。せっかく頑張って早稲田大学に入ったのに、このまま卒業したら何も残らないんじゃ・・・。ふとそんな不安がよぎったからです。そこで一年半、芸能活動を休止することに。その間、交換留学生として台湾に行くなど、積極的に行動しました。交換留学から帰ってくると待ち構えていたのは、「就職活動」。周りの友人たちがせっせとエントリーシートを書き、本格的に就職活動を始めるなか、自分はどうすべきなのか悩んだと言います。考えた末に、「せっかく仕事をくれる方がいっぱいるのだから、やれなくなるまで芸能活動をやってみよう」と、芸能界に居続けることを決めました。

その後はモデル兼俳優として活動を続け、2ヵ月ほど仕事で中国に渡るなど、どんどん活躍の幅を広げていきました。本田さんは2006年に開催された、第一回中・日・韓アジアスーパーモデルコンテストで、4位入賞の実績を持っています。受賞が縁になり、中国でのモデルの仕事に声がかかりました。日本とはまるで事情が違う中国の仕事環境に戸惑いながらも、「2ヵ月間朝から晩まで、ひっきりなしに仕事やら会食やらが入っていたので、日本に帰ってきた時は少し物足りなかったですね(笑)」と、仕事への思い入れが強くなるきっかけとなったようです。

大学卒業後も、芸能活動を続けましたが、次第にその気持ちに変化が生じ始めます。当時は大手企業の広告モデルやドラマ出演を中心に活動していましたが、徐々にモデルとしての自分に違和感を隠せなくなっていったのです。繰り返し自分の気持ちと向き合った結果、本田さんは事務所を辞めることに決めました。退社の希望はすぐには受け入れてもらえず、話し合いは数回にわたりましたが、3回目の交渉でついに、オスカープロモーションを後にすることが決まりました。