野村克也「野球は頭の使い方で決まる」自分を育ててくれたプロ野球界に、これだけは言っておきたい(上)

スペシャル・インタビュー
週刊現代 プロフィール

「ということは、『負けろ』ということか」と再研究を命じたが、結果は同じ。それほどイチロー攻略法を探すことは難しかった。そこで私は、メディアを使った心理戦に出ました。

テレビ出演を依頼されて、イチロー攻略法を聞かれたら、決まって「どうせ打たれるなら、内角中心に攻める。逃げて打たれるよりはいい。そのほうがすっきりする」と繰り返しました。

効果はてきめんでした。シリーズ最初の2試合、イチローはいつもよりわずかに体が開いていた。あれほどの打者でも、事前に「内角を攻める」と繰り返し言われれば、自分では意識していないつもりでも、身体が反応してしまうものです。最初の2試合でイチローを7打数1安打と抑え、主導権を握り、4勝1敗でシリーズを制することができました。

まずは己の限界を知る

私が「野球は頭のスポーツだ」と断言できるのは、私自身の野球人生が技術ではなく、研究に支えられていたからです。

'54年にテスト生で南海に入団して以来、現役時代は3017試合に出場し、戦後初の三冠王にもなった。監督としても5度のリーグ制覇、3度の日本一を成し遂げることができました。

ただ、入団前の京都・峰山高時代はプロ野球選手になれるとは考えもしなかったし、その力はなかった。病弱な母の女手ひとつで育ち、貧しかったので、学校生活の合間を縫って、新聞配達を続けていました。家計を助け、貧しい生活から抜け出したい、との思いで南海の入団テストを受けましたが、その時も京都から大阪に向かう旅費がなく、高校の野球部の部長先生に頼んで貸していただいた。

入団テストでは、投げる、守る、走ると部門別にテストがあり、私は肩が弱かった。ほかの受験生が一投目で合格ラインをクリアできても、私はクリアできなかった。2投目を投げる前、テストを手伝いにきていた1年上の先輩選手が「前に行け」とささやいてくれて、本来のスタートラインより5mも前から投げて、ようやく合格ラインをクリアできた。私はその程度の選手だったのです。

ですから、プロ入り後は「1年でもこの世界で長く生きたい」と必死でした。入団3年目に一軍に定着しましたが、その年に感じた私の能力の限界が、「野村野球」、いわゆる「ID野球」の原点になりました。

当時、何とか打撃で結果を残そうと、打席で「直球を待ちながら変化球に対応する」という器用な打者をめざしました。しかし、三振また三振。なかなか改善されずに、苦労しました。

「三振を減らす、何かいい方法はないか」と悩んでいた時、テッド・ウィリアムズの打撃論を読む機会を得た。その中に、何気なく記されていたひと言が、私に希望の光を与えてくれたのです。