【麻生財務大臣の父・麻生太賀吉】将来の国家産業は石炭に懸っている―筑豊の風土が麻生家を大きくした

福田和也・世界大富豪列伝「蕩尽の快楽」連載第119回麻生太賀吉(その一)
福田 和也

銀行、鉄道、電気・・・・・・実業界をリードしていく

明治6年、太吉は鞍手郡に住んでいた吉川半次郎の六女ヤス子と結婚し、四男四女をもうける。
父の協力のもと、鯰田、忠隈と新しい炭山に手をつけ、地道な努力によって炭坑を開いていった。
この間、国の殖産興業政策により、全国に新しい工場が次々に建設され、鉄道や航路の延長により石炭の需要は急激に増加していたが、石炭に目をつけた東京、大阪の三井、三菱、住友といった財閥が大資本と最新技術をもって、この業界に進出してきたため、石炭の供給過剰状態になってしまった。

せっかく採った石炭が売れないのでは、話にならない。
この苦境を、太吉は鯰田炭坑を三菱に、忠隈炭坑を住友に売却することで乗り切った。鯰田は10万5000円、忠隈は10万8000円という当時としては巨額の金で売れ、それを資金にして、太吉は新しい炭坑の開発にかかることができたのだった。

麻生太賀吉(1911~1980) 麻生グループの発展を担った。妻は吉田茂の三女で、長男は麻生太郎

日清戦争という追い風もあり、石炭業界は好況となった。
太吉もその恩恵に浴したが、そこで得た利益を石炭業とは別の事業に向けることを決めた。明治29年3月、資本金18万円の嘉穂銀行が設立され、太吉は初代頭取に就任したのである。

鉄道事業にも着手し、いくつかの会社の役員になるなど、実業家として成長していく。
もちろん本業の石炭業にも精力的で、綱分、豆田、吉隈と、次々に新しい炭坑を開いていった。
太吉は鉱員たちを大切に扱った。自ら炭坑にもぐっていき、ひとりひとりに声をかけて激励した。

明治40年代には電気事業にも参入し、九州の実業界をリードする存在となる。
大正7年には株式会社麻生商店を設立して社長となり、得意の絶頂にいた太吉に不幸が襲ったのは翌年のことだった。

三男の太郎が腸チフスで急逝したのだ。33歳だった。
太郎は「父君の美質を稟け頭脳明晰、性豪胆にて良く人御し、店内の衆は悉く悦服し、天晴れ好箇の後継者を以て嘱目されて居た」(『麻生太吉翁伝』)という人物で、長男が夭折、次男もアメリカ留学中に客死している太吉にとっては頼みの綱だったのだ。

しかし、悲嘆に暮れてばかりもいられない。太吉はただちに自分の後継者となるべき人物を定めた。
それは、当時まだ8歳であった、太郎の長男・太賀吉であった。

『週刊現代』2015年4月11日号より

 


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