先日、フェンシング日本代表コーチを務めるマツェイチュク・オレグ氏の話を聞く機会があった。彼は世界とは水をあけられていた日本のフェンシングを牽引し、指導方法はもとより、システムなどもすべて変更をした。それが太田雄貴選手の北京オリンピック男子フルーレ個人銀メダル、ロンドンオリンピックの男子フルーレ団体銀メダルにつながった。
彼が就任した当時、日本選手、コーチのなかには「カテナイ」というメンタリティが染みついていたという。何をやっても、何をやらせても深層心理には「カテナイ」という気持ちがあり、自分たちで限界を作っていた。オレグコーチは、このマインドを「カテル」に変えない限り、世界で戦うことなどできないと指導したという。ただ、口先ではなく本気でそう思えるようにするのは簡単ではない。その世界を分かっている人間ほど、難しさを知っているからだ。「メンタルなんて変えられない。そのためには、少しずつ積み上げるしかないんです。ひとつずつ実績を積み上げ、自信を持たせていく。1人がその壁を超えるとチームは“勝てるかも”と考え始めるんですね」とオレグコーチは語っていた。この積み上げこそが、日本フェンシング界の「カテル」を作り上げたのだ。
そういえば、錦織圭選手の活躍を支えるマイケル・チャンコーチも同じようなことを彼に指導したという。ロジャー・フェデラー選手に憧れるあまり、対戦できることに満足していた彼に「コートに入れば相手が誰であろうと勝つことを考えろ」と厳しく叱責した話は有名だ。本気で勝てると信じていない者が勝てるはずがないという、チャンの哲学である。
この2つの話を知った後だったので、元オリンピアンの「記録が出たことで周りが変わってくる」との言葉にはすぐに合点がいった。前田選手の走りは「カテナイ」が蔓延している女子陸上界に、確実に一石を投じたはず。この刺激により「私にもできる」と思う選手が出てくるはず。本気で皆がそう思い、挑戦するようになれば、女子長距離界に光が射すのではないか。そういう意味でも前田選手の好走は本人だけでなく、業界にとって大きな転機になる可能性がある。
女子だけではない、男子でも東京マラソンで今井正人選手が久しぶりの2時間7分台を出した。2時間7分39秒は日本歴代6位だが、日本記録は2時間6分16秒。なんと2002年の高岡寿成さんのもの。それから13年もの間、時計は止まったままである。一方で世界記録はアフリカ勢によって、度々更新されている。いかに厳しい状況か、お分かり頂けると思う。それだけに今井選手が出した記録の意味は大きい。これで男子マラソン界にも「勝負できる」という思いが広がることを強く望みたい。
すると、前田選手、今井選手の頑張りに触発されたのか、日本実業団陸上連合が「(マラソン)日本記録でボーナス1億円」という“ニンジン作戦”を発表。賛否はいろいろとあるが、これで記録を出す選手が1人出てくれば、周りの意識も随分変わるはず。2人の活躍の直後というタイミングも良かった。ぜひ「カテナイ」を「カテル」に変える成功例として他の競技の手本となれるか。日本マラソンの勝負に注目したい。