大坂夏の陣400周年『歴史に埋もれた長宗我部家の盛衰』十七代当主・長宗我部友親氏インタビュー

近衛龍春著『長宗我部 最後の戦い』文庫書下ろし刊行記念

長宗我部: 一五一八年、千雄丸は元服し、二十代・国親と名乗り長宗我部家再興を果たしました。一領具足とは土佐独特の半農半兵の兵で、本作でも勇猛果敢な戦いぶりが描かれています。この一領具足の基礎を作ったのが国親です。当初は、一時領土を失い家臣が減って著しく低下した兵力を補うための策であったとも考えられています。しかし二十一代の元親のころには、四国をほぼ平定するまでの精強さを誇る軍団となっていくのです。

没後四百年にして盛親の「慰霊の碑」を高知市に建立

─長宗我部家といえば、この元親を思い浮かべる人がほとんどだと思います。

長宗我部: 四国全土を制圧しながらも、豊臣秀吉による四国国分(一五八五年)で領土は土佐一国に戻されてしまいます。元親は公式文書では「長宗我部宮内少輔秦元親」と自分のことを記しています。「長宗我部」が姓、「宮内少輔」は官職、「秦」は氏です。下層民出身の秀吉に膝を屈しながらも、秦氏の誇りを抱き続け、捲土重来を胸に秘めていたと思われます。

──元親は一五九九年、病没します。そしてあとを継いだ二十二代の盛親が関ヶ原の戦いで西軍に属いた結果、長宗我部家は改易となります。家康に弓を引いた島津家は存続を許されたにもかかわらず、同じ西軍でも一度も攻撃しなかった長宗我部家は改易です。これは秦の始皇帝にさかのぼる長宗我部家の家格を、家康が畏怖していたと考えられます。

長宗我部: そうした側面はあったかもしれませんね。それに家康としては西方の脅威となる島津、毛利、そして長宗我部のどこか一角は潰しておきたいと考えていたのだろうと推察されます。

──長宗我部家改易後、仕える家を失った家臣の中には他家に仕官する者も多かった。そこで、大坂の陣では旧臣が敵と味方に分かれ刃を交える悲劇が起こります。

長宗我部: 今年の一月に、産経新聞の企画で、大阪の八尾市にある常光寺に行ってきました。ここは徳川方の藤堂高虎が陣を置いたところで、盛親隊とぶつかり、その激しさは「八尾の戦い」として語り継がれています。常光寺に入ると、藤堂隊の戦死者の墓所はあるのですが、盛親隊のそれはまったく見あたりませんでした。藤堂隊を祀るところなので、当然ですが。ただ、長宗我部の旧臣で、この戦いの時には藤堂家の家臣だった人々の戒名が確認できました。その筆頭格は桑名弥次兵衛。彼は元親に高く評価された武将で、長宗我部家改易後は藤堂家に高禄で迎えられた逸材です。そんな彼を含めて、かつての長宗我部の旧臣がこの寺に葬られている。何か言いようのない複雑なものを感じましたね。

秦神社(はだじんじゃ) 高知県高知市長浜門前857-1 Tel 088-841-2464  アクセス~南はりまや橋から高知県交通「長浜」行き乗車、「長浜出張所」下車後、徒歩約3分。 明治初年の廃仏毀釈により、雪蹊寺が廃寺になったため、雪蹊寺に安置されていた元親の木像や、戸次川合戦戦死者の霊板などを御神体として、明治4年(1871)4月に創建された。

──本作は上下巻、千ページ強に及ぶ大作です。これほどの紙数を割いて盛親を描いた作品は、今までになかったのではないでしょうか。

長宗我部: そうですね。“長宗我部モノ”といえば元親を主人公にした作品が圧倒的に多いと思います。本作では盛親の正室(作中では香ノ方)の最期に関するエピソードにも触れています。

この女性は徳島県阿南市にある後世神社に祭神として祀られ、神社にはその最期が悲劇の伝説として伝えられています。また、土佐の国が望める後世山には、正室の危機を報せるために、姫の血染めの袖をくわえて土佐に向けて走り、途中で息絶えたといわれる愛犬「国照」の石像も置かれています。

著者の近衛さんはそんな伝説に想を得てこの話を挿入したものと思われますが、これまで盛親を扱った小説で、正室の最期まで描いている作品は記憶にありません。それだけに、近衛さんが広範囲にわたって膨大な史料を渉猟なされたことがうかがえますね。私も先日、「国照」が葬られているという塚にお参りしてきました。

──盛親に魅力を感じる現代人も多いようで、没後四百年にあたる今年、高知市の秦神社に慰霊の碑が建てられると聞きました。

長宗我部: 父親の元親の墓所は高知市の天甫山、長兄の信親は秦神社に隣接する雪蹊寺(長宗我部家の菩提寺)に眠っています。戦国乱世を駆け抜けた元親親子ですが、盛親の墓のみいまだに土佐にはなく、遠く離れた京都の蓮光寺にあります。これは大坂夏の陣ののち、京都で捕縛され六条河原で斬首されたからですが、「慰霊の碑だけでも建てよう」と有志の方がご提案くださり、実現したものです。ありがたい話です。五月四日に慰霊碑の除幕式が行われることになっているんですよ。

徳川家や山内家の末裔と座談会で親しく歓談

秦神社内に建立される長宗我部盛親の慰霊の碑(完成予想図)。今年5月4日、同神社内で除幕式が行われる

──友親さんに至る系譜はどのようなものでしょうか。

長宗我部: 盛親が正室との間にもうけた男子はすべて捕らえられ処刑されましたので、私の祖先は、元親の末弟の親房になります。これを初代として私が十七代です。昭和三年(一九二八)に皇室から元親公に正三位を追贈されることが決まり、このときに祖父の親が「元親公孫」として贈位書を受けとり、公に長宗我部家継承家系と認められました。