【日本絵画界の重鎮・梅原龍三郎】「健啖家」にして生粋のぼんぼん。昭和日本の洋画界にこの人あり―

福田和也・世界大富豪列伝「蕩尽の快楽」連載第116回 梅原龍三郎(その一)
福田 和也

34歳になるまで父親から仕送りをもらった

家には毎日、絵師たちが来ていて、梅原は光琳や宗達のスタイルなどについて、小学校に上がる前から話を聞かされていた。
しかもその絵師が実際に図案の模様を描いているすぐ横で見てもいたのだ。
その華麗な色彩は梅原の奥深くに沈潜し、後に画家・梅原の色彩として現れ出たのではないだろうか。

梅原が絵を描き始めたのは15歳のときであった。
格致小学校、府立第二中学と進んだが、中学3年の終わりに病気のため休学することになり、その後、画塾に通い始めた。
はじめは伊藤快彦の画塾に入ったが、すぐにフランス留学から帰ったばかりの浅井忠の洋画研究所に移った。安井曽太郎も来ていて、一緒に学んだ。
後に日本の洋画壇に「安井・梅原時代」を築くことになる二人の邂逅だった。

梅原龍三郎(1888~1986) 20~25歳の5年間、梅原はフランスに留学。ルノワールやピカソと会い洋画家の素養を高めた

梅原は画家になることを志したが、父親が許さなかった。画家などは家に出入りしている図案絵師と何ら変りがなかったのだ。
もっと生産的な仕事をしろと言われ、梅原は数百羽の鶏を飼って養鶏を試みたが、見事に失敗した。
一体梅原がどうやって鶏にエサをやっていたのか見てみたいが、もちろんそんな写真が残っているはずもない。

明治41年、梅原は絵を学ぶため渡仏した。渡航費用は父親が出した。息子には事業の才能はないと、あきらめたのだろう。
梅原が画家として大成できたのは、この父親の存在なくしてはあり得ない。何しろ梅原が34歳になるまで仕送りを続け、生活と画業を支えたのだ。

梅原と比べるのもおこがましいが、私も、さんざん父の金を使った。フランスに留学させてもらい、高い本を買ってもらい、所帯を持ってからも、金の工面をしてもらった。曲りなりにも物書きになれたのは、父のお蔭だと思っている。

5年間のフランス遊学において、梅原は、ルノワールをはじめとするフランスの絵画を学び、言葉を学び、演劇に興じ、料理と酒に親しみ、貪欲にフランスを吸収した。
フランスは梅原が持って生まれた資質に、日本以上に合っていたのかもしれない。
『私の梅原龍三郎』の中で、高峰秀子はこう述懐している。

「フランス生活が長かったせいか、レストランでワインリストを眺めるときの先生はいつも楽しそうで念入りだった。白はプイイフィッセ、赤ならシャンベルタンがお好みで、気に入った銘柄がみつからないときは終始上等のシャンペンで通すこともあった。
 食後は必ずコニャックとデミタスコーヒーを前にして御機嫌だった」

『週刊現代』2015年3月21日号より


 ★ 読みやすい会員専用のレイアウト
 ★ 会員だけが読める特別記事やコンテンツ
 ★ セミナーやイベントへのご招待・優待サービス
 ★ アーカイブ記事が読み放題
 ★ 印刷してじっくりよめる最適なレイアウト・・・などさまざまな会員特典あり

▼お申込みはこちら
 http://gendai.ismedia.jp/list/premium