特別レポート 阪神大震災から20年名将・仰木監督の死から10年 プロ野球オリックス・バファローズ男たちの「約束」

——優勝の準備はできた
週刊現代 プロフィール

9月14日の近鉄戦以降、4試合、本拠地・神戸で優勝を決めるチャンスがあったが、打線が沈黙。最後のチャンスとなった同17日のロッテ戦も、3点リードの8回から2番手で登板した平井が4安打を浴び、降板。3-6と逆転負けを喫し、神戸での胴上げが夢と消えた。それでも、当時の神戸グリーンスタジアムに来場したファンは、平井がマウンドを降りる際、大きな拍手を送った。1年の働きぶりをたたえたのだ。

「震災直後は、『この状況でオープン戦にお客さんが来るだろうか』と思いましたが、チームが勝つにしたがって、だんだんお客さんも入るようになってきた。神戸で、自分たちがファンの方たちに乗せられていった感じがした。だからこそ、あの場面で打たれた自分が悔しかった」(平井)

入団2年目で守護神に抜擢してくれた仰木には、深い恩義がある。入団1年目の'94年9月10日、プロ初登板となった近鉄戦。同点で迎えた9回裏無死満塁の場面でマウンドに送り出された。絶体絶命。1人目の打者は三振に仕留めたが、次打者に犠飛を打たれ、サヨナラ負けのデビューだった。

「宿舎に戻ると、監督室に呼ばれました。当然、怒られると思ったら、仰木さんは監督賞をくれたのです。『これで新地(北新地)に行ってこい』と。当時まだ19歳だから行けなかったんですけどね。普通ならストライクも満足に投げられない緊迫した場面で、三振をとれたこと、後続の打者に打たれたこともいい勉強、と仰木さんは言いたかったのだと、後になって気づいた。あの場面で初登板できたことは、プロ生活21年間の大きな支えでした」(平井)

その仰木は'01年を最後にオリックスの監督を退任。しかし、オリックスと近鉄が合併して新球団が誕生した'05年、1年だけ監督に復帰した。肺がんの激痛に耐えながらシーズン最後まで指揮をとり、同年12月15日に70歳で逝去。オリックスが歴史の転換点に立たされると、必ずと言っていいほど、この男がチームをまとめた。平井が言う。

「仰木さんが亡くなって今年で10年です。去年まで現役だったので、小倉にある仰木さんのお墓参りには、実はまだ行けてません。今年優勝して、墓前に日本一を報告するつもりです」

'96年の日本一を最後に、チームは低迷期に入った。監督がコロコロ替わり、仰木も亡くなり、「柱」不在の時期が続いた。そこに現れたのが、森脇だった。昨季、5年続いたBクラスを脱し、リーグ制覇まであと一歩にこぎつけた。

震災当時、まだ少年だった若手選手にも、森脇や平井らコーチたちの意気込みは受け継がれている。昨季、球団新記録の開幕8連勝で2位躍進を支えた24歳の右腕・西勇輝は言う。

「今年の抱負は、一言で言えば、『優勝するための駒になる』。とにかく森脇監督を神戸で胴上げしたい。選手との距離が近すぎると批判する人もいますが、あんなに親身になってくれる監督はいません。震災から20年の節目の年。今年優勝するために存分に働きたい」