妻の死後、27年間の不倫にけじめをつけたが…田原総一朗を襲った現実

ぼくが生涯で愛した女性について
小野 美由紀 プロフィール

節子、現実世界のパートナーに

3年迷ったすえ、田原は節子に求婚する。節子は前の夫と離婚し、娘たちは全員、就職して自立していた。つまり、2人を邪魔するものは何もなかったのだ。しかし、答えはNo。今まで25年間も、我慢して離れて暮らしていたのだ。急に一緒になって、これまで通り、主体性を保ったままでいられるだろうか。娘たちを、不幸にしやしまいか。そんな心配が、節子の頭の中にはあった。田原にもそれがよくわかった。

しかし、その後、立て続けに娘たちの結婚が決まった。改めて、求婚する田原。節子は今度こそ、首を縦にふった。しかし、それは節子が、体調が悪化する田原を気遣ってのことでもあった。

娘たちの反応は、親の心配をよそに、あっさりしたものだった。

「お父さんは、家族を放り出さなかったから」

現在、田原のマネージャーを務める次女の眞理はこう語る。

「再婚してもし、お父さんが出て行っちゃうとか、新しいお母さんが来るから出ていけって言われたりしたら、すごくいやだとは思うんです。けれど、生活は別に変わらないんで、それならいいかなって」

1989年8月15日。田原は節子と結婚した。出会ってから27年後のことだった。

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結婚後、2人はこれまでの恋人関係とは一転、仕事の相方へと変わった。雑誌の原稿も彼女に読んでもらい、添削も彼女が行う。「文の構成がおかしい」などと、節子はときに辛辣な意見もずばずばと述べた。

87年、司会を務める「朝まで生テレビ!」がスタート。89年には「サンデープロジェクト」が始まり、テレビ人としても、再び波が巡って来たころだった。結婚してはじめて、彼女は魂の世界だけでなく、現実の生活のパートナーとして、再び、田原の世界に舞い降りたのだ。

愛はコミュニケーション

セックスはなくなったが、それで2人の関係が冷える事は全くなかった。田原にとっては、セックス=愛、ではない。

「2人の間では愛はコミュニケーション、つまりおしゃべり。出会ってから、結婚しても、それは変わりません。しかも節子はベッドの中でも政治について論争をしかけてくるような女性でしたからね。毎回、最後は僕が根をあげた。女の人のほうが、強いなと思いますよ」

 

出会ってから結ばれ、夫婦になっても、しゃべり倒し、論争し倒しの2人だった。

「最初の女房もそうだし、節子の場合もそうだけど、奥さんに家事洗濯をしてほしくないんですよ。だから家事は全部、家政婦さんに頼んでいました。貧しくても、家事洗濯をする役割りではなく、話し合う相手だと思ってるんですよ、女房っていうのは」

もはや彼女のいない人生など考えられなかった。彼女より、3日でも、4日でも先に死にたいと田原は考えていた。

どマジメに、一直線に、それは若い時から2人とも変わらなかった。

「こういうと、ドラマチックに思えるでしょう。でもね」

田原は言う。

「僕にとって愛と恋、結婚は単純なものなのですよ。仕事以外に興味が無い。振り返れば単純なことを単純にやってきただけ」

節子、乳ガンに

しかし。田原の体調が治ったとたん、今度は節子が乳ガンを患う。

節子のガンは、炎症生乳ガン。悪性中の悪性だった。田原は節子に「ただの乳ガンだ」と告げた。節子が病名を知ってしまって、生きる気力を失うのが怖かったのである。

抗がん剤治療を3ヵ月3クール。入院も3ヵ月。末子の時よりも、いっそうヘビーだった。あまりにも重い治療に、節子は「本当の病名を教えて」と詰め寄るが、田原は口を割らなかった。1999年、節子は乳房を摘出し、腹直筋の一本を移植する大手術を行う。手術後に病名を知った節子は怒り狂い、田原は懸命に謝った。

手術してなお、節子のガンは半年後に再発し、脳にも骨にも転移した。しかし節子は諦めず、ガン患者のシンポジウムに登壇したり、娘と旅行をしたりと、懸命に生きる事を楽しんだ。田原も、そんな節子を支え続けながらも、飽きる事無くテレビの仕事を続け、ジャーナリズムに身を賭し続けた。

2004年の夏、サンデー・プロジェクトの取材で、田原はアメリカ、次いで北朝鮮に向かう。節子はいつ集中治療室に入ってもおかしくない状態だった。そんな彼女を置いて、遠くに行く事は田原にはとても難しい選択に思えた。しかし、節子に「逆の立場なら、あなたは行けと言うだろう」と背中を押され、断腸の思いで旅立った。