妻とパートナー、ふたりの女性への愛に揺れた、田原総一朗の半生

僕が生涯愛した女性について
小野 美由紀 プロフィール

再会してから4年後の1967年2月3日。田原と節子ははじめて二人で旅行に出かけた。関係を進めるか、終わらせるか、この旅行で決断するしかないと思ったからだ。

京都の街を、朝から晩まで歩き通した。藤原定家の墓地の前の石の橋、そこを渡る際、田原が先に渡り、親切心から彼女に手を差し伸べた。その瞬間、彼女はとっさにその手をひっこめた。そのいきおいに田原はぎょっとした。

「ああ、もう、抜き差しならないところまで来てしまったのか」

 

二人で生きてゆけるのなら、仕事も家庭も、何もかも捨てていい。節子は社会という盤の上では、とても強い女性だったが、内面では脆さを抱えていた。それを見てしまった自分は、どこまでも節子に添い遂げるしかないのではないか……。

人生の岐路で苦悶する二人。しかし、田原には自分を止める事はできなかった。京都から東京に戻った翌日には、二人はもう会っていた。

こうなったら、もう行ける所まで行くしか無い。

京都から帰って来て2ヶ月後、はじめて田原は、東海道線の二宮の宿で、節子と結ばれる。

セックスというリアリティ

しかし、セックスをしたとたんに田原の肩には重く責任がのしかかってきた。

一人の人間の人生を破壊してしまったという気持ち。おまけに、妻子を裏切ってしまったという自責の念。田原は妻子を愛していた。家庭を破壊したいわけではない。男として喰わせてゆく責任がある。しかし、自分は危ない橋を飛び越えてあちら側に行ってしまった。

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「二人で屋台のラーメン屋でもやって生きればいいじゃない」と言う、節子の言葉が急にリアリティを帯びてくる。

「男と女の関係っていうのは、僕は業みたいだなと思う。悪いなあと思っても、なかなかそれをやめようという気にならない」

家族にはいい親、節子にはいい恋人でいたいという、男のずるさと、責任への苦悶。二宮から東京駅までの新幹線の中で、田原はずっと、節子の手に手を重ね合わせていた。

仕事に命を燃やす2人

田原は節子と関係を深めてからも、ずっと家庭を守り通した。互いの家庭は壊さない。田原にとっても節子にとっても、仕事が人生のコアの部分であることは変わらない。仕事への情熱を燃やすかぎり、二人は魂の部分で結びついたパートナーだった。

犯罪すれすれになりながらも、撮りたいものを撮る。一種の極限状態にいる人間たちをありのままに撮る。自身も極限状態に入り込む。それが気持ちよかった。

片腕をガンで失い、余命半年を宣告された、役者の高橋英二のドキュメンタリー。高橋が国会議事堂に向かって散弾銃を撃ち込むシーンを撮った。アメリカの監獄に忍び込んで、反戦デモでつかまった囚人たちのインタビューをやったりもした。

「僕は人に思われているほど、そんなに自由奔放な人間じゃない。法律は犯さない方がいいと思ってますよ、できればね。でもどっちかっていうと法律を犯した人が好きだけどね。なぜかっていうと、一生懸命に考え、一生懸命に生きてるから。田中角栄とかね、堀江貴文とかね、江副さんとかね、法律を犯した人と親しいです、一生懸命生きてるから」

しかし、そんな折り、田原の妻、末子がガンで倒れる。末子44歳、田原41歳の時の事だった――。

(後編につづく