妻とパートナー、ふたりの女性への愛に揺れた、田原総一朗の半生

僕が生涯愛した女性について
小野 美由紀 プロフィール

村上節子。24歳。1959年に日本テレビ入社。アナウンサーは今と同じく当時も高値の花だ。だが、節子は可愛らしいだけではなく、芯の通った女性だった。

入社2年目ですでに結婚していたが、女性は寿退社するのが当たり前だった時代にも関わらず、テレビを一生の仕事とし、志を持って働き続けていた。

「毎週1回、ディレクター、プロデューサー、僕、彼女の4人で話し合いをする。こんなことをやろう、とかあんなことをやろう、と。話していて、とても互いの気持ちがフィットするなあと思いました。それが最初」

田原は節子相手に人生論をけしかける。君にとって仕事とは何か? 人生とは何か? 男だろうと女だろうと容赦なくぶつかってゆく田原に、節子は応戦し続けた。ただのかわいい女子アナかと思っていたら、鋭い答えが返って来る。話がどんどん深まる。不器用な田原にとっては、論戦は一種の求愛だった。それに彼女は答えてくれた。

 

しかし、当時岩波のディレクターだった田原にとって、局アナの節子は雲の上の人。東京育ちの節子に対し、滋賀の田舎出身ということもコンプレックスの一つだった。

その時は距離の縮まらぬまま、田原が岩波映画社をやめ、東京12チャンネルへと転職した事で、彼女と会う機会もぱったりと途絶える。

次に二人が再会したのは3年後、東京オリンピックの年だった。

魂でぶつかり合える初めての相手

1964年。節子は出産し、子育てをしながらも日テレでアナウンサーを続けていた。

節子が田原に電話をかけたことがきっかけで、二人は再会する。何年経っていようと、田原にとって節子は変わらずマドンナだった。

節子は後に「ひさびさに会ったのに、最初から人生論をふっかけてくるんだもの。彼と話していると、丸裸にされるみたいだった」と語っている。

再会のその日から2人の距離は近づきはじめた。仕事の情熱を分かち合う同志として。論争相手として。気持ちの通じ合う仲間として。男と女として。

「男と男の関係というのはね、親しいからといって、なんでも話し合えるわけではない。重要なところではライバルなんですね。どっかで見栄をはったり、競ったり。そういう意味では、男と女の関係の方が何でも話し合える。そういう相手が欲しいと思っていました。それは今でも同じです」

いつ会っても、彼女とは話ばかりをしていた。互いの生き方までをも問うてなお、食いついてくる女性、いや人間は、節子をおいて他になかった。いつのまにか、節子は田原にとって無くてはならない存在になっていた。手すら繋いだ事がなくても、彼女はすでに、田原の中では恋人だった。

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取材相手にのめりこんで番組を作る田原だから、相手の女性に惚れられることもしばしばあった。夜中遅くまで会って話を聞いたりすることもあるのだから、制作が終わる頃には、まるで恋人のように親密な雰囲気になっている。困るのはその後処理だ。

隠し事のできない田原は「ぼくには村上節子という好きな女性がいる」と宣言していたが、そう言っても聞かない女性には、節子に「恋人のふりをしてくれ」と頼んで、3人で会ってもらったりもした。もちろん、自分の気持ちは隠したままで。

「今から思えば、節子を口説くのが恥ずかしかったから、そういう作戦を取ったのかもしれない」

命がけの恋

田原は彼女と出会ってから、それまでとはまったく違う世界に足を踏み入れたような気がしていた。作る番組の質が変わったのもこの頃だった。より深く、より過激に。

誰に嫌われたって構わない。彼女が認めてくれて、面白いと言ってくれるなら、ただそれだけでよかった。人間の本質をえぐり出す、田原流のドキュメンタリーのスタイルが確立され始めた。

「取材って恐いことですよ。相手の前で、裸になるわけですから。未だに仕事でコミュニケーションを取る事は恐いですよ。相手が僕に不信感を持ったら終わりだから。特に政治家の場合はね。だから信頼を勝ち取るために僕は、嘘を言わないし、隠さない。そういう意味では恋愛も取材も似たようなものだと思う。自分をひらく、自分をさらけ出す」

しかし、そこまで深く魂の部分まで結びついていても、田原は節子の手も握れなければ、キスもできなかった。

「不倫が悪だとは言わないけれど、女房に対する罪悪感はありますよ。たとえセックスをしなくても、愛を感じて、関係が深まっていくということは」

家庭もあれば子どももいる。一線を飛び越えるのが怖かった。もしこれ以上関係を進めたら、家庭も仕事も壊しかねない。