妻とパートナー、ふたりの女性への愛に揺れた、田原総一朗の半生

僕が生涯愛した女性について
恋愛・結婚のロールモデルなき時代、各文化人や一流ビジネスパーソンが半生を振り返りつつ、自分にとっての「愛」とは何かを語るインタビュー連載。第2回はジャーナリストの田原総一朗さん。「結婚はシェアハウス」と言い切る田原さんは、元祖「AV男優」で「草食系男子」!?  27年間の不倫、妻の2度の乳がん……。苦悩と衝撃の人生を語る。

どこにも受からない就活

「ぼくが、生涯で愛したのは2人。自発的にセックスしたのも、2人だけ」

田原総一朗。言わずと知れたジャーナリストだ。80歳を超えてなお、「朝まで生テレビ」で熱弁を振るう。フリーに転身する以前は、TVディレクターとして果敢に取材対象に食らいつき、タブーを冒しながらも人間の本質に迫る番組を撮り続けて来た田原。

フリーになってからも、ジャーナリストとして取材対象に果敢に向かう姿勢は崩さない。恋や愛にも、持ち前のエネルギーで向かって行く人物だったのだろうか?

「僕の両親はね、完全に戦争の犠牲者です」

1934年、滋賀県彦根の生まれ。母親の実家は紐をつくる工場を営んでいたが、生活は貧しかった。

 

「第二次世界大戦で軍事工場以外は仕事ができなくなって、いろいろと商売を替えたんだけど、上手くいかなくなって。敗戦後に開業した闇屋も、全部失敗。だから非常に生活も苦しかったし、お袋はしょっちゅう親父に怒ってました。毎日借金取りがくる。最後は仏壇まで売りました。だから僕は子どものころから父母にずっと同情していました。可哀想だなと」

初めて東京に出て来たのは、早稲田大学の夜間部である第二文学部に合格し、同時に日本交通公社(現JTB)に入社した1952年。小説家を志しての進学だった。

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「高校の時からずっとアルバイトして、家に金を入れて。大学も、通いながら家庭に金を入れるという条件で許してもらったんです」

JTBのカウンターで、関西弁をバカにされながら切符を切る日々。大学に行ったのは最初の1週間だけ。残りはずっと小説を書き続けていた。しかしなかなか目が出ず、小説家の夢を諦める。まともなところに就職するために、早稲田大学の昼間部を受け直し、文学部に再入学した。

「大学に受からなければ死ぬと思っていました。そういうつもりで交通公社をやめて、3年ぶりに受験勉強して。新聞配達のアルバイトをしながら大学を卒業した。早稲田には7年間居たね」

人より3年遅れの卒業。マスコミを目指し朝日新聞やNHK、フジテレビなどかたっぱしから受験したがどこもだめ。人相も愛想も悪いから全然受からない。仕方なく、残っていた岩波映画社を受け、ようやく合格した。

「面接で、朝早く呼び出されたけれど時間が押しに押して全然呼ばれない。待っていたら昼になっちゃった。その時点で200人ほど残っていたから、『昼食を要求しよう』と呼びかけたけれども誰も乗らない。

唯一手を挙げたのが後の劇作家、清水邦夫。結局面接で受かったのは、僕と彼だけ。あの時、ラーメンを要求したから岩波に受かったんだと今でも思っている」

落ちこぼれから一転、期待の新人監督に

なんとか入社してからも、困難が待ち受ける。機械に弱い田原は撮影助手はつとまらず、怒られてばかり。コードを忘れたり、カメラを落としたり。麻雀もせずに黙ってトルストイを読みふける田原は、完全に社内の鼻つまみものだった。

大阪支社にいたが、使えないということで東京に戻される。運良く拾ってもらったカメラマンの下で働く中、偶然、小児まひに関するシナリオを書いたことがきっかけで評価を得た。落ちこぼれから一転、監督に抜擢される。

田原は本当は、最初から人間が撮りたかった。人間ってなんだ? それを追究したくて仕方が無かった。

そうしているうち、日テレからドキュメンタリー番組『二十世紀』と、ニュース番組『奥さまこんにちは』の構成のオファーが来た。1961年。ジャーナリスト・田原総一朗の始まりである。