宇野亞喜良 第2回
「ぼくらの時代の人たちはみんな悪口を言い合うのが好きだよね」

島地 勝彦 プロフィール

立木 シマジのところの週刊プレイボーイもひどいもんで、シバレンさんや開高さんの写真を撮っても一枚あたりたったの2,000円だったんですよ。

シマジ モノクロの活版ページでしたし、社カメを使えばタダのところを無理やり外部に出していたからそんな金額せざるをえなかったんですよ。だってそうしないと社カメの連中に抗議される。タッチャンにもこんなに安く撮ってもらっているんだよと証明してみせて彼らを納得させていたんです。

宇野 なるほど、そういう事情があったんですね。ギャラは安くても、柴田さんや開高さんを撮影するのは愉しかったでしょう?

立木 それは、まあね。

宇野 でも、いまは素人がデジカメで撮ったものが面白かったり、いい写真だったりするじゃない。こうやってプロに照明を当てられると緊張するけど、素人のデジカメだとかえっていい表情を捉えたりすることもあるんですよね。

立木 そういういい表情が継続的に撮れるかどうかがプロとアマの差なんです。

シマジ こういう元気な巨匠たちが現役でいるなか、若手がイラストや写真でメシを喰うのは大変なことですよね。

立木 いやいや、いまはメディアも多くなったし、世の中が回っていれば仕事のオファーはある。それだけで我慢出来るヤツは一生OKだと思うよ。でも下手に腹にイチモツあるヤツはすぐに余計なことをしたがる。バカなヤツほど苦しむんだよ。

宇野 話は変わりますが、シマジさんは何歳で終戦を迎えたんですか?

シマジ 4歳と3ヵ月ちょっとでしたか。その時は疎開先の一関にいましたね。農家の軒先で玉音放送を聞きました。

宇野 ぼくは終戦のときは小学6年生でした。だから小学校時代は東郷元帥が戦艦大和の甲板にいる絵とか、天皇陛下が白馬に乗っている絵を描いたりしていましたね。

名古屋市内は空襲がひどかったんで、ちょっと田舎の方に集団疎開をしていたんですが、終戦を迎えたあとで教員の部屋を覗いたら、うちの両親に宛てたハガキが一枚落ちていましてね、「10月にお子さんを連れて名古屋に帰るので迎えにきて欲しい」という趣旨だったんです。

両親がすでに疎開先を引き上げていたんでしょうね。ぼくのハガキだけが住所不明で戻ってきた。だから家族に連絡がつかないまま、あてもなく名古屋に帰ったんです。当然、親は迎えに来てくれませんでした。

シマジ 浮浪児になるんじゃないかという恐怖はありませんでしたか?

宇野 一瞬頭をよぎったんですが、生まれついての楽天家だからか、それはそれで面白いかもなと思っていましたね。以前家があった町とは違うところにバラックを建てているというハガキの記憶だけをたよりにそこへ向かうと、確かにバラックがあった。

まだ建てている最中で、近くに行くと白人のような大工さんがカンナをかけていた。それは単に色白な日本人の大工さんだったんですけどね。で、しばらくすると妹がちゃんちゃんこを着て帰ってきて、「ああ、ここが自分の家なんだ」と確信しました。

シマジ タッチャンは戦争中も徳島にいたんですか?

立木 もちろん。徳島の街からクルマで一時間くらいの山村に疎開していて、そこから徳島の街が赤く燃えているのを見たよ。東京で使い残した爆弾を帰る途中徳島に落としていったんです。失礼しちゃうよね。

近所の銭湯に直撃したんだけど、うちの写真館の裏は色街だったから、若い芸者さんが何人か亡くなったとあとで聞きました。子供ながらにひどいことをしやがるなと思いましたね。終戦は小学校2年生のときでした。