スペシャルインタビュー 甲子園優勝3回、通算62勝の秘密 野球部コーチを勇退した小倉清一郎氏が明かす「横浜高校はここまでやっていたから、勝てた」

週刊現代 プロフィール

「小倉メモ」の秘密

現在、ランナーやコーチが打者に指示を出す行為は日本高等学校野球連盟の規定で禁止されている。しかし、こういうずる賢さも高校野球の駆け引きだった。「隠し球」にしても今では誰もやらなくなったけどルールブックで禁じられたプレーではない。

たとえ100試合に一度起きるか起きないかのプレーでも、指導するというのが俺の信念なんです。試合中に不測の状況が起きて、選手たちに「このプレーは練習していない」と思わせてしまうことだけは避けたい。そんな俺でも隠し球の練習や対策はしなくなった。少しだけ高校野球がつまらなくなった感じはするな。

小倉は毎試合、相手投手の特徴を書いたA4用紙一枚と、相手打線ひとりひとりの打球傾向や得意・不得意のゾーンを書いたB4用紙一枚の、通称「小倉メモ」を選手に渡す。指導者人生の原点である東海大一時代から、高校野球に「データ」を導入してきた第一人者だ。

データをうまく活かすことができ、参謀冥利に尽きた試合というと、'01年夏の甲子園準々決勝で対戦した寺原隼人(現ソフトバンク)擁する日南学園との試合になる。当時の最高球速154㎞/hを記録した寺原は、バントを警戒する時、松坂を参考にしてステップ幅を小さくして投げていた。要はいち早くホーム方向にダッシュして、二塁で走者をアウトにしたかったんですね。俺は視察の段階で、「ステップが小さくなると、球威が落ちる。バントの構えからバットを引いて、ストレートを狙い打て」と伝えていた。それが功を奏して勝つことができた。

逆に、データを活かしきれずに敗れた試合は悔やみきれない。最近だと、'12年の神奈川大会準々決勝、エースに松井裕樹(現楽天)がいた桐光学園に敗れた一戦だ。勝てた試合だった。本来なら(松井が同年の甲子園で達成した)1試合22三振の大記録なんて生まれなかったんですよ。

当時、2年生の松井が、簡単には打ち崩せないピッチャーであることは重々承知していた。彼からは取れても3点。だから、いかに失点をそれ以下に抑えるかが勝敗のカギを握っていた。

何とか3点を先制することができたが、守備でミスを犯してしまう。相手のキーマンは、武拓人(今春より早稲田大に進学)だった。確かにバッティングセンスのある左打者だけど、当時は1年生でピッチャーの速い球には対応できず、引っ張ることができなかった。だからメモには、「二塁手はセカンドベース付近、遊撃手は三遊間の真ん中に守れ」と書いていた。ところがそれを上手く実行できず、俺が守らせようとしていたところに2度も内野安打を打たれ、それが失点に結びついて逆転を許してしまった。

ちょうど1年後に、再び松井と対戦して勝利し、甲子園に行くことはできたけれど、やはり悔しさは残る。

俺がベンチに入らなくなってから横浜高校は、甲子園で春はベスト8、夏はベスト16が最高成績。ベンチにいたらもっと勝てた……とまでは言わないが、一緒に戦えないことによる歯がゆさはもちろんあった。

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