豆腐屋の息子が一代にして 資産500億円、年収20億円 狙われたセガサミー里見会長はとんでもない大金持ち

週刊現代 プロフィール

「1兆円稼ぎたい」

今でこそ政界の熱心な後援者となり、エスタブリッシュメントの一員として、その名を轟かせる里見氏だが、そうなるまでには、紆余曲折があった。

里見氏の父親・治夫氏は、妙義山の麓に位置する群馬県甘楽郡妙義町(現・富岡市)の出身。里見氏は母親の実家がある群馬県福島町(現・富岡市)で生まれた。治夫氏が東京で職を得たことから、一家は豊島区雑司が谷に移住したという。

治夫氏の古くからの知人が言う。

「その後、板橋に移り、故郷からこんにゃく芋を仕入れて製造し、販売していました。ところが、こんにゃくは夏場に売れないことがわかった。そこで治夫さんは早々にこんにゃくに見切りをつけ、豆腐屋に商売を変えたんです。豆腐は年間を通じて売れますからね」

治夫氏は治氏にも受け継がれた商才を発揮した。食糧難の時代を背景に、商売を順調に拡大させ、最盛期には30人以上の従業員を抱える、都内有数の豆腐工場にした。治氏は家業の成功で、比較的裕福な学生時代を過ごしたという。

「教育熱心な母親の存在もあって、大学は青山学院大学に進学。ところが、学業にまったく興味がなく、池袋にバーを開いたり、ジュークボックスやゲーム機のリース業をしたりと、商売に精を出していました。ジュークボックスから回収した100円玉をズダ袋に入れて歩いていたものです。当時、『驚くほど儲かった』と言っていました。

結局、大学は中退。かといって、豆腐屋を継ぐ気もない。自分で商売を始める道を選んだのです。こんなこと言っていましたね。『(家業が)豆腐屋だけに1兆(丁)円稼ぎたい』と」(前出の知人)

1兆円を稼ぐには、他人の作った機械をリースしているだけでは限界がある。そこで、里見氏は自らゲーム機を製作することを考えた。試行錯誤を経て、クレーンゲームなどを世に送り出し、'73年、往年のファンに懐かしい、アレンジボールの大ヒットで経営を軌道に乗せる。

「アミューズメント事業に目をつけたのは、ジュークボックスが原点です。それ以降、一貫して娯楽産業に携わってきました。大衆がどんな娯楽を望んでいるのか、それを先取りして提供する先見の明があった。この感覚は若い頃から自分で儲けて遊んでいたから身についたのでしょう。

ところが、手形詐欺事件に巻き込まれて4億円の損失を出したこともあり、'77年に倒産を経験。再起を模索し、インベーダーゲームのヒットもあって、息を吹き返します。'82年からはパチスロの製造・販売を開始し、シェアを拡大。しかし、射幸心を煽りすぎるということで規制が厳しくなり、再び'93年に倒産の危機を迎えました」(前出の関係者)