倉本聰インタビューこの国はどこへ行こうとしているのか
「北の国から」いま思うこと

週刊現代 プロフィール

その風景が変わっていったのは田中角栄さんの時代。ミニ開発というのが始まったんです。一区画300坪を持っていた地主さんが相続税で土地を手放すと、それが30坪ほどの10の区画に分けられて家が建てられていく。その繰り返しによって善福寺は都市化されていったんですね。東京全体についても同じでしょう。

東京オリンピックの開催が決まった時、「TOKYO」という文字が溢れ返るのを見て、僕は自分の住んでいた「東京」はもはやローマ字で表現したほうがしっくりくる気がしたものです。

町は生き物なのだとは思いますが、一方でその変化に否応なく翻弄され、時代に流されていく人たちがいる。僕がゆっくりと故郷を失ったのに対し、福島の浜通りではわずかな時間で「故郷」が失われ、今も急速に失われ続けているんです。そこにあるはずの人間一人ひとりの物語に、僕たちはもっと寄り添うべきではないでしょうか。

変わりゆく日本にあって「やせ我慢の精神」を体現し、日本人の理想像を演じてきたのが、昨年11月、83歳で亡くなった俳優・高倉健さんだ。
健さんと倉本さんは、映画『冬の華』('78年)、『駅 STATION』('81年)など、数々の作品をともに作り上げた「盟友」だった。倉本さんは健さんとの思い出をこう語る。

健さんが亡くなって、もう四十九日が過ぎたのですね。あれほどストイックな健さんが亡くなって、僕みたいに不摂生ばかりしている男が生き残るなんて—。未だに、もう健さんがいないという事実が受け入れられません。

撮影現場では、本当に寡黙で、ほとんど話をしませんでしたが、普段お会いするとよく話をしましたよ。健さんは冗談が好きだし、ユーモアのある人でした。

健さんと最初に仕事をしたのは、'77年の連続ドラマ『あにき』でした。健さんから脚本を書いて欲しいとお願いされて、大原麗子の紹介で初めて会ったんです。

その時に、「これから海外に取材に行く」と話したら、健さんがそのとき身につけていた金のペンダントを外して、僕に付けてくれたのをよく覚えています。不動様があしらわれたもので、まだ健さんの体温が感じられたものでした。

健さんが教えてくれたこと

健さんは僕の目をじっと見て、「先生、家紋はなんですか?」と聞くんです。違い鷹の羽です、と答えたら「無事、帰ってきてください。帰国されたら、家紋の入ったものをプレゼントします」と言われまして。あっという間に惚れてしまいました。

その後、健さんと何度も仕事をしましたが、あれほどまでに男というものを突き詰めて考えていた方はいないと僕は思います。「男の美学」を持つ古武士のような人でした。

健さんとは「死に方」について語り合ったこともあるんです。「僕にどんな死に方をしてほしいですか」と健さんに聞かれたので、こう答えました。ニューオーリンズかどこかにある汚い街のドブ川で、ある日、身元不明の東洋人の死体が見つかる。安置所で3日くらいしてから、どうやら高倉健という日本で有名な俳優らしいぞ、とわかる—。

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