これが俺のプロ野球人生だから「太く、短く」それでよかった 誰に何と言われようと、悔いはない……

山口高志工藤幹夫 与田剛 伊藤智仁 田村勤ほか
週刊現代 プロフィール

4年目の日本シリーズを迎える直前、歩行中にバランスを崩し、腰を痛めた時も「仕方がない。来る時が来た」と達観していた。

期待にこたえるために

「『短命でいい』と思って、この世界に飛び込む人間はおらんでしょう。自分なりに『何とかしよう』と思って頑張ったが、その結果は人によって違う。腰痛発症後も4年間、球団に残してもらえたが、復活できなかった。でも入団から4年間は目一杯頑張れた。それが僕のプロ野球人生でした」

山口が現役を引退した'82年に20勝4敗、防御率2・10の活躍をし、最多勝、最高勝率、ベストナインに輝いたのが工藤幹夫(54歳)だ。秋田・本荘高からドラフト2位で日本ハムに入団。上京時から、ある覚悟を決めていた。

「3年やってダメなら、やめるつもりでした。実家は稲作農家。長男は実家を継ぐものだ、という考えが代々、ずっとあります」

入団2年目まではアンダースロー。同3年目の'81年、一軍に定着したが、2勝9敗と一軍の洗礼を浴びた。球威の必要性を感じた工藤は、日本シリーズ直前、自らひじの位置をあげ、サイドスローへ変更。直球のMAXが10㎞もあがり、135㎞に。変化球のキレも増し、中継ぎ登板で抑えて自信をつけた。翌'82年、20勝をあげる転機になった。

しかし、日本シリーズ出場を決める西武とのプレーオフを約1ヵ月後に控えた9月、自宅のドアノブに右手小指を強打した。

「医者から『骨折で全治3週間』と診察されたその日に、(当時監督の)大沢(啓二、故人)さんに『プレーオフの初戦を任せた。1ヵ月あれば治る』と言われた。当時まだ21歳で『無理です』なんて言えない。しかもその年、対西武戦は6勝1敗と相性もよく、僕がチームの柱。マウンドに上がる以外の選択肢はなかった」

予定通り登板したプレーオフ第1戦は6回無失点。小指の骨はまだくっついていなかった。中2日で第3戦にも登板し、完投勝利。だが、小指をかばうあまり、ボールの離し方が変わり、肩に負担がかかった。骨が完全につかないまま、翌'83年のシーズンを迎え、8月まで8勝。しかし、ついにはひじが肩の高さまであがらなくなり、登録抹消を申し出た。以降、全盛期の投球は一度もできず、'88年のオフに現役を引退した。

「好きな野球ができる以上、太く、短くでもいい。一度でいいから、最高峰の場で、てっぺんをみたかった。一時期でも自分が20勝投手だ、ということを全国の人にわかってもらうことはできたかな。大沢さんへの恨み?それはまったくありません。むしろ頼りにしてくれたことが嬉しかった。監督とファンの大きな期待が、骨折の痛みも感じさせなかった。野球人生に後悔はありません」

ブルペンで流した涙

山口高志が引退した8年後の'90年、中日に入団した与田剛(49歳)を、山口に重ねていた人物がいる。与田の担当スカウトだった中日・水谷啓昭だ。

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