【沿線革命005】
上野東京ライン開業で浦和は武蔵小杉に続くか

阿部等(交通コンサルタント)

浦和駅の歴史

浦和の開業は、日本鉄道が上野-熊谷を開業させた1883(明治16)年7月である。首都圏では1872(明治5)年10月の東海道本線の新橋(後の汐留)-横浜(後の桜木町)に次ぐ2番目の鉄道である。

設置された途中駅は王子・浦和・上尾・鴻巣の4つのみで、その当時は日暮里も田端も赤羽も川口も大宮も、駅を設置するほどの集落がなかった。浦和は中山道の宿場町として江戸時代から栄えていた。

ちなみに、江戸時代は日光御成街道(日光街道の脇往還だが、将軍が日光東照宮参詣の際に利用した)の宿場町として栄えた岩槻の方が栄えて人口が多かった。

明治期に現在の東北本線と高崎線を建設するのに、両線の分岐箇所を熊谷・大宮・岩槻のいずれにするか意見が分かれ、最終的に大宮となった。

その後百数十年を経て、分岐箇所となった大宮は大鉄道町として発展し、今や埼玉県の最大拠点である。両線が経由した浦和と熊谷も県都あるいは新幹線駅として相応に発展している一方、いずれからも外れた岩槻の状況を見る時、鉄道の地域発展への影響力をまざまざと感じる。

日本鉄道は、1906(明治39)年11月に買収により国有化され、1909(明治42)年10月に線路名称が制定され、東京-青森は東北本線、大宮-高崎は高崎線(現行と同様に東北本線の線路を走行して上野まで乗り入れ)となった。

1932(昭和7)年9月の東北本線電車(現在の京浜東北線)の大宮までの開業(線路は東北本線と共用)とともに、東北本線と高崎線のほとんどの列車が浦和を通過するようになった。

以来、1968(昭和43)年10月からの朝夕のみ停車、1982(昭和57)年11月からの終日停車まで、特急・急行どころか普通列車のほとんどが県都である浦和を通過していた。

一方、東北貨物線は1931(昭和6)年12月に開業していたように、明治から戦後の高度経済成長期の前半まで、鉄道貨物はおおいなる活躍をしていた。

1968(昭和43)年10月に東北本線の全線複線・電化が完成し、「ヨンサントオ」と呼ばれる白紙ダイヤ改正が実施された。その際、赤羽-与野に電車線2線が増設され3複線化され、浦和では西から順に高架の貨物線、地平の旅客線、地平の京浜東北線が通るようになった。

貨物線には後に赤羽発着、池袋発着、湘南新宿ラインと旅客列車が走行するようになったが、ホームがないために浦和には停車できなかった。また、高架と地平で段差があるために東西自由通路を作りにくく、街の分断も続いた。

その後36年が経過し、2004(平成16)年に旅客線と京浜東北線の高架化工事が開始された。2011(平成23)年3月の東日本大震災その他の影響により工事は遅れたものの、2013(平成25)年3月に現在の姿となった。

貨物線にもホームが新設され、湘南新宿ラインその他が停車するようになるとともに、東西自由通路ができて街の分断も解消され、バリアフリー設備も整備された。

鉄道の施設整備というのは、ことほど左様に長年を要し、かつ多額の経費を要する。浦和は、昨年に駅としての完成形となり、来年にラインとしての完成形となる。近年の鉄道の利便向上はその恩恵だ。街として、またダイヤとしては完成形ではなく、まだまだ成長途上だ。