[虎四ミーティング~限界への挑戦記~]
田淵幸一さん(野球解説者)<後編>「ONという高い山」

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死を覚悟したデッドボール

二宮: 田淵さんは歴代8位の128死球を受けました。なかでも1970年8月26日、甲子園で広島の外木場義郎さんから受けた死球は衝撃的でした。当時、私は小学生でしたが、耳から血をダラダラ流しながらバッターボックスに倒れ込んでいた田淵さんの姿が、未だに脳裏にこびりついています。
田淵: ヘルメットに耳当てがなかった時代ですからね。あとで聞いた話ですが、球場にいるドクターが監督に×サインを送ったらしいんですよ。

二宮: その時のことは全く覚えていない?
田淵: 投げた途端にボールがまったく見えなかった。ただ、これが不幸中の幸いでした。もしボールが見えていた中で当たっていたとしたら、ずっと恐怖心が消えなかったかもしれませんね。当たった瞬間は、バーンっていう音がしてね。最後に記憶があるのは救急車の音だけ。あとは“みんなが何か言っているなぁ”と……。そこからの記憶はないんです。

二宮: 当たったのは側頭部でしたか?
田淵: こめかみの横でしたので、ちょうどヘルメットに覆われていない部分です。血がドーッと溢れ出して、ガーゼを当てても、なかなか止まらなかった。記憶が戻ったのも1週間後でしたよ。

二宮: エーッ! 1週間も!?
田淵: ですからオヤジも相当の覚悟をしたみたいです。あとで村山(実)さん(当時は投手兼任監督)が教えてくれたんですが、オヤジが村山さんに「監督、息子はグラウンドで死んだら本望でしょ」と言ったそうです。「オマエのオヤジはたいししたもんやな」と、村山さんも感心していましたよ。

二宮: その後、恐怖心を乗り越えて打席に立てるようになるまでは随分、時間がかかったのでは?
田淵: 復帰してしばらくの頃、右ピッチャーのカーブに思わず逃げてしまったことがあったんです。やはり心のどこかに怖さがあった。だから「耳当てが出来たんや。当たっても大丈夫だ」と自分に言い聞かせることで、徐々に恐怖心を克服していきました。