木村政彦との「巌流島の決闘」が行われた2年後の1956年、第三十四回芥川賞に石原慎太郎の「太陽の季節」が選ばれた。
同年には弟の裕次郎も出演して映画化され、「太陽族」が生まれた。彼らはジャズ、ダンス、ヨットなど豊かな若者文化を享受。
日本に新しい時代が到来するとともに、プロレス人気は早くも衰えの兆しを見せ始めていた。
力道山は街頭テレビのプロレス中継によってスターになったが、そのテレビの普及が喫茶店や家庭へと広がり、家庭で見るには、プロレスはあまりふさわしくない番組だと、とらえられるようになったのだ。
∴
そんな折、日本プロレス・コミッショナー主催による「ウェイト別統一日本選手権」が始まった。
この頃の日本のプロレス界は力道山の圧倒的人気によって、大阪の全日本プロレス協会、熊本の国際プロレス団といった団体の活動が停滞してしまい、それがプロレス人気の衰えにもつながっていた。
力道山は、こうした団体と一緒になって「統一日本選手権」を行うことで、プロレス界を活性化させ、同時に日本のマット界をまさに「統一」しようとしたのだ。
10月15日は東京・日本橋浪花町のプロレスセンター、23、24日は東京国際スタジアムで、ライトヘビー級、ジュニアヘビー級、ヘビー級の三階級の試合が開催された。
このヘビー級の優勝者が力道山への挑戦権を獲得することになっていたが、優勝者の東富士との対戦は実現しなかった。東富士側にその気力がなかったのだ。
この試合により、力道山は日本のプロレス界を統一することはできたが、プロレス人気を呼び戻すまでにはいかず、翌年一月に行われた、外国人選手を招いてのシリーズの客入りはこれまでのシリーズで最低となってしまった。
∴
それをひっくり返したのが、力道山とルー・テーズの「NWA世界選手権試合」である。
テーズは幼少の頃から父親にレスリングを学び、1934年、17歳でプロデビューを果たした。
1948年にNWA世界ヘビー級の王者に就いてから、55年まで936連勝を果たした、「史上最強のレスラー」である。
もっとも来日したときのテーズは41歳。人気、実力ともに維持はしていたが、その存在は力道山と日本のメディアによって、「堕落したプロレス界の中の正統派」として神格化された、という見方もある。
かくして、1957年10月2日、テーズは夫人とともに来日した。
宿泊場所は帝国ホテル。プロレスラーとしては破格の処遇である。
翌日の3日には東京会館でレセプションが行われた。これは大野伴睦の日本プロレスリングコミッショナー就任披露を兼ねていた。
余談だが、この大野伴睦という人物、政友会の院外団に所属していたとき、金に困り、当時総裁だった原敬からお歳暮に三度小遣いをもらったという逸話が残されている。
にくめないキャラクターが、私は好きだ。
力道山とテーズの初戦は、10月6日、後楽園スタジアム特設リングで行われることが予定されていた。
リングサイドの席料は3600円、映画館の入場料が150円の時代である。
テーズのギャラは一試合1万5000ドル、540万円であった。
雨のため順延となり、試合は翌日の7日に後楽園で、さらに13日、大阪扇町プールに場所を変えて行われた。
両試合とも、61分の三本勝負。力道山の空手チョップとテーズのバックドロップという必殺技がいつ炸裂するかという、スリリングな展開となったが、いずれも引き分けに終わった。
の試合をビデオで見た岡村正史はその印象を次のように書いている。
「何が面白かったかというと、この試合のためにわざわざ箱根で一週間のトレーニングキャンプを張った力道山の動きがよいため、流れるような展開が生み出されている点だ。私はリアルタイムでは61年以降の力道山しか記憶していないが、いつももたもたしている印象がつきまとっていた。しかし、テーズと対戦した力道山の動きは素晴らしい」(『力道山』)
観客も同じように、力道山の動きに目を見張ったに違いない。世界のテーズにひけをとらない力道山の評価は大いに高まり、プロレス人気を喚起することに成功したのである。
∴
力道山には、レスラーとは別のもう一つの顔がある。
実業家である。
1961年7月30日、東京・渋谷道玄坂に「リキ・スポーツ・パレス」が完成した。
地上9階地下1階のビルで、1階はボウリング場、スナックバー、2階はスチームバス、レストラン、喫茶店、ボクシングとレスリングのジム、3階から5階が円型の体育館でプロレス常設会場、6、7階は女子ボディビルジムといったスポーツ多目的ビルである。
4階には社長室があり、当然そこにいるのは、力道山である。
今でこそこうしたビルはめずらしくないが、東京オリンピックが行われる3年も前の話である。力道山の発想がどれほど日本人ばなれしていたかが窺える。
同年の8月には赤坂に「リキ・アパートメント」が完成。力道山は8階に居を移した。
百坪のパーティ用の大広間、横幅2メートルの熱帯魚の水槽、ホームバー、専用エレベーター、庭にはプールもあった。
日本住宅公団が設立され、鉄筋コンクリート造りの2DKの部屋に住むことが幸せとされていた時代の話である。
『週刊現代』2014年11月29日号より