ところがそこには、力道山のしたたかな興行戦略があった。
自らこう語っていたという。
「日本人は、肩書に弱いからな、世界チャンピオンと聞いただけで、無批判にあこがれちゃうんだ。おまけに、相手は鬼畜を絵に描いたようなアメリカの大男だ。だから、あのとき、日本での第一戦によぶのは絶対にあの二人じゃなくちゃダメだったんだ。そのためにワシはファイトマネーもやつらがアメリカの本場で稼ぐ三倍も出したんだ。あとは賭けだ。根性だ。しかし毎日新聞が後援してくれることが決まって、テレビとの提携ができてからは、もう何も心配はしなかった。これで当たらなきゃおかしいと思ったからな。ワシはアメリカでテレビを見て、プロレスほどテレビにピッタリの番組はないと思ったんだ。あとは何ごとも、努力だ」(『力道山をめぐる体験』小林正幸)
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1954年11月1日、朝日新聞に、対シャープ戦でタッグを組んだ木村政彦のコメントが載った。
シャープ戦で自分は損な役回りだったが、真剣勝負なら、力道山に負けない、といった挑戦状を叩きつけた。
11月4日の毎日新聞に力道山が挑戦に応じると返答し、「巌流島の決闘」が行われることになった。
調印式は大船にある松竹撮影所の会議室で11月27日、執り行われた。
力道山は自慢のキャデラックで乗り付け、しかも恰好は派手なポロシャツにチェックの上着。一方木村は、ネクタイを締めた地味な背広姿で、東京から湘南電車に乗ってやってきたという。
かくして12月22日の日本選手権。運命の蔵前国技館、1万3000人を超える超満員の観客を前に、世紀の一戦の幕は落とされた。
61分の三本勝負。
試合は、ゆっくりとした展開からはじまったが、木村の蹴りが力道山の股間に触れた処から、急展開になった。
力道山が右ストレートを木村に見舞い、ロープ際に追いつめつつ、張り手を繰りだす。
木村は、タックルから脚をとりにいくが、ロープ・ブレイク。力道山は即座に、張り手を繰りだした。
木村がダウンしたところでフロント・ネックロック。決まらないと見ると、顔面への蹴りを見舞った。
木村が助けを求めるようにレフェリーに顔を向けたところに力道山の左右の張り手が襲い、木村はダウンした。
力道山は日本選手権を獲得したのである。
『週刊現代』2014年11月22日号より
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