[裏方NAVI]
須黒祥子(バスケットボール国際審判員)<前編>「国際経験ゼロでの抜擢、味わった苦悩」

スポーツコミュニケーションズ

はじめと終わりが肝心の国際大会

 アテネ五輪で指名された審判員30人のうち女性は6人。世界各国から優秀な審判員が集められていた。その中で最年少の須黒は「右も左もわからない」状態の中、7-8位決定戦を含む4試合の副審を務めた。「やっぱり怖さはありましたね。堂々と立つことと、自分の笛には責任を持つこと。そんなことくらいしかできませんでした。いいゲームにするには、レフリーがやらなければいけないことはたくさんあるんです。でも、まったくできなかった。他のレフリーたちにおんぶにだっこ状態だったんです」

 当時の須黒にとっては、選ばれた理由もわからなければ、何もできなかったという思いが強かったため、大会後はできることなら封印したいくらいの気持ちだったという。だが、そんな気持ちとは裏腹に、帰国後はメディアで取り上げられることが増えた。その場は笑顔で答えるものの、内心は嫌で嫌で仕方なかったという。「新聞に記事が掲載された途端に、取材が殺到したんです。本の出版や講演の話まできたくらいです。でも、『どうでしたか?』なんて聞かれても、何もできなかったという気持ちしかなかったので、答えようがなかったんです。できることなら、話したくないと思っていました」

 とはいえ、須黒には貴重な経験でもあった。右も左もわからない状態の中、彼女をいろいろとサポートしてくれたのが、同じ審判員の先輩たちだった。
「フランス人とカナダ人の審判員が、とてもよく面倒を見てくれたんです。どこかに行く時も、必ず『祥子、祥子』って呼んでくれて、一緒に行動してくれました。彼女たちからは本当にいろいろと教わりました。本来であれば、コート上でのことをアドバイスしてもらうべきだったと思いますが、当時の私はそこまでのレベルに達していなかったのでしょう。彼女たちが教えてくれたのは、コート外のことだったんです」

 それは、国際大会での過ごし方だった。審判員は自分に割り当てられた試合以外の時間は、自由に過ごすことができるのだという。何時に起きても、いつ寝ていてもいいのだ。しかし、須黒がアドバイスを受けたのは、「きちんと朝ごはんを食べること」と「その日の最後の試合会場にはいるようにすること」だった。それは新鮮な情報を得るための方法だった。

「試合さえ割り当てられていなければ、朝ご飯を食べずに寝ていてもいいんです。でも、みんなが集まる食堂にいることで得られる情報がある。だから、朝ごはんはきちんと食べるようにした方がいい、と言われました。それから最後のゲームは好カードが割り当てられることが多いので、結構レフリーが集まるんです。そうすると、そこでもいろいろと話を聞くことができる。それに、最後のゲームの時に翌日の割り当てが発表されたりするので、その場にいないと、自分だけわからないということにもなりかねない、というわけです」
 いい審判員仲間に恵まれたことが、須黒の唯一の救いだった。

 その後、須黒は再び五輪の審判員に選出されるなど、数々の国際舞台で笛を吹いてきた。ロンドン五輪ではメダルがかかった3位決定戦の副審にも抜擢されるなど、審判員としてのキャリアを積み上げてきた。その中で、審判員の存在に対する考え方も変化してきたという。
「ファウルを見落とさずに笛を吹くことが、審判員の一番の役割ではない」
 と須黒は言う。果たして、審判員の役割とは――。

須黒祥子(すぐろ・しょうこ)
1971年7月28日、東京都生まれ。中学からバスケットボールを始める。日本体育大学在学中に母校のバスケットボール部コーチとなり、恩師のすすめで練習試合で審判員も務めるようになる。大学卒業後、高校教諭となり、バスケットボールを指導する傍ら、審判員としてのキャリアを積む。95年に日本バスケットボール協会公認審判員、2000年には女性初のA級審判員、翌年には国内最高のAA級審判員に昇格。03年には国際バスケットボール連盟審判員の日本人女性第1号となる。04年アテネ五輪、12年ロンドン五輪で副審を務めた。現在、都立駒場高校に勤務する傍ら、日本バスケットボール協会国際審判員としても活躍している。

(斎藤寿子)