若い新聞記者が拙宅に来られた。これまで私に多少の蓄積がある往時の移植医療の取材であったが、よく勉強されている記者で、知る限りのことは伝えた。話が一段落してからこういわれた。
「一読者としていえば、要するに後藤さんはご自身が好きになった人のことを書いてきた作家ですね」
長く稼業を続けてきた余禄なのであろう、私にも読者がいると思うことがある。記者はそのお一人だったようで、主要な拙著すべてを読んでおられた。ストーリーの細部を書き手よりもよく記憶されていることがあって、ありがたくもまた恐縮してしまった。
結局、好きになった人のことを書いてきた―。その通りであったと思う。
近年の作でいえば、『清冽』、『スカウト』、『ラグビー・ロマン』、またこのたび上梓した『天人 深代惇郎と新聞の時代』の主人公たちは、いずれも敬意を覚えつつ好きになった人たちであった。
『清冽』は詩人の茨木のり子、『スカウト』は広島カープなどでスカウトをつとめた木庭教、『ラグビー・ロマン』は同志社大学ラグビー部監督の岡仁詩、『天人』は朝日新聞の朝刊コラム「天声人語」の書き手をつとめ、他紙を含め新聞史上最高のコラムニストともいわれた深代惇郎が主人公のノンフィクションである。
四人の職や世界は異なり、とくに重なるものはないが、あえて共通項を取り出せば、思春期に戦争に遭遇したことがある。茨木と木庭は1926(大正15)年生まれ、岡と深代は1929(昭和4)年生まれである。
「軍国少女」だった茨木は、勤労動員された海軍の療品廠で終戦を迎えている。木庭は爆心地の近くの路上でピカドンの閃光を浴びた原爆の被災者であった。岡は終戦間際、和歌山の海岸で本土決戦に備えて塹壕掘りをしていた。深代は、海軍兵学校予科の生徒で、最後の海兵第78期生である。いずれも「聖戦」を信じ、自身の人生が10代において閉じるであろうことを知っていた。
敗戦となり、がらりと価値観が一変した世を迎える。一身にして二生を経ることを強いられたのである。
戦後間もない時期、新たに接した共通のものに、たとえば「新劇」があった。さまざまな戦後の新思潮に接し、それを胸一杯に吸い込みながら戦後の日々を生きていった世代でもある。
四人に通底するのは、リベラルの原意「個人として自立した自由の民」という意味でのリベラリストであったことだ。
戦後、茨木が詩人として到達した地平は、ベストセラーとなった詩集『倚りかからず』という言葉に集約されている。木庭は個人よりも集団を上位に置く全体主義的指向をとても嫌った。自主性を重んじる岡は晩年、作戦はもとより試合に出るメンバーの選出も学生に委ねた。
深代の「天声人語」は、ウイットとユーモアに富んだ柔らかい味を特徴とした。視野広く、思考は柔軟であり、左右を問わずあらゆるイデオロギーに対する〝懐疑主義者〟であったが、個人の自由と民主主義を尊ぶことにおいては一歩も譲らぬ硬派の人だった。
私が彼らに引かれたのは、まずはリベラルという波長に同調するものを覚えたからであるが、さらにそれが借り物ではなく、歳月のなかで自身のものとしていった本物感があった。
目の前に、はじめから民主主義社会があったのではない。彼らのリベラル志向は、たとえ枠組みが外から与えられたものであれ、死地を潜り抜け、内面の葛藤を経て受け入れていったものである。そして、その理念を自身の生き方の基軸として生涯貫いた。そのことが、人格的な厚みとして立ち現われていた。
いま急速に戦後の価値観が崩れつつあるが、敗戦を実体験した世代が去りつつあることにもかかわりがあるのだろう。
3年余り、深代の残した「天声人語」を繰り返し読む日々を送った。時事を扱うのが新聞コラムであるから素材が古くなっているのは当然であるが、いまもなお発光し続ける言葉の力を感じた。それは、書き手の、〈自由の民〉という普遍的な視座から綴られた言葉であったからなのだろう。
(ごとう・まさはる ノンフィクション作家)
読書人の雑誌「本」2014年11月号より
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