第98回 谷崎潤一郎(その三)初めて訪れた祇園で仏料理に芸者遊び。気鋭の20代作家は贅沢を尽くした

福田 和也

「御影を敷いた細い路次の奥のこじんまりした家で、東京の待合然として居る。芸者も泊れるのだと云ふから、実際幾分かさう云ふ性質も帯びて居るだらう」(同前)

莫大な額の原稿料を朝日新聞からもらって

 翌日からも、全て新聞社もちで京都観光をしたり、祇園に遊んだりと、実に楽しそうだ。
当時岡崎にいた上田敏の招待で、高級料亭「瓢亭」で食事をしている。

「先づ最初に、笹の雪の餡かけぐらゐの大きさに切つた一と片の豆腐が、小型の皿に盛られて出る。豆腐の上には青い白いどろどろの汁がかゝつて居る。東京の絹漉程の柔かみはなく、肌理の工合も違つて居ながら、口に含めば全然別趣の、捨て難い味がある。汁は木芽を粉にして、砂糖と一緒に溶かしたやうなものであらう。(中略)酒が好いので頭へも上らず、いくらでも物が喰べられる」(同前)

このとき、谷崎は弱冠27歳である。新聞社の饗応に臆することもなく、実に堂々としている。

京都に遊んだ翌年、大正2年1月、『中央公論』に「悪魔」が掲載された。
「悪魔」はかなり生々しい小説である。
鼻風邪を引いた女性のハンカチを舐めるという趣向である。

「此れが洟の味なんだ。何だかむつとした生臭い匂を舐めるやうで、淡い、塩辛い味が、舌の先に残るばかりだ。しかし、不思議に辛辣な、怪しからぬ程面白い事を、己は見付け出したものだ。人間の歓楽世界の裏面に、こんな秘密な、奇妙な楽園が潜んで居るんだ。・・・・・・彼は口中に溜る唾液を、思ひ切つて滾々と飲み下した。一種掻き挘られるやうな快感が、煙草の酔の如く脳味噌に浸潤して、ハツと気狂ひの谷底へ、突き落されるやうな恐怖に追ひ立てられつゝ、夢中になつて、唯一生懸命ぺろぺろと舐める」

滝田樗陰 東京大学在学中から『中央公論』の編集者となり、1912年に編集主幹になってからは多数の作家に原稿を依頼した

同年4月、『大阪毎日新聞』に「少年の記憶」を発表しているが、「悪魔」に通じる谷崎の生々しい感覚が窺える描写がある。

「十歳になつた正月、私は初めて、お節の煮〆めの中にある蒟蒻を喰つた。私はツルツルした蒟蒻の肌を珍らしさうに舐めて見たり、口腔へスポスポと吸ひ込んで舌に啣んで見たりした。さうして、物体の形状から予め想像して居た通りの味である事を知つた」(「少年の記憶」)

谷崎が『東京朝日新聞』に物を書くようになったのは、大正3年のことである。
この年の4月から、『東京朝日新聞』では夏目漱石が「こころ」の連載を始めていた。

その連載が終わり、次の大作が始まるまでの間に、谷崎の短編「金色の死」が数日間掲載されたのである。2年後には「鬼の面」という長編が連載されている。
当時のことを谷崎はこう述懐していた。

「思ひ出すのは、一週間毎に受け取ることになつてゐた原稿料を、毎週待ちかねるやうにして銀座の朝日新聞社まで取りに行つたことである。

私の家は向島の新小梅にあつたが、あすこから雷門まで歩いて電車に乗り、今の西銀座、その頃の瀧山町にあつた同社まで、大概自分で出かけて行つた。稿料は一回五円ぐらゐで、三十円ぐらゐづつ払つてもらつたのだと思ふ」(「あの頃のこと」)

当時、小学校教員の初任給は12~20円であった。

『週刊現代』2014年11月1日号より

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