第九十七回 谷崎潤一郎(その二)祖父が導いた繁栄と父の事業の失敗。少年はそれを見つつ「向学心」に燃えた

福田 和也

谷崎が、「谷崎花月」なる号で、『学生倶楽部』なる回覧誌の雑録欄に『学生の夢』と題した文章を発表したのは、明治三十一年、尋常小学校高等科二年生のときである。
府立第一中学校に入学してからは、一中の「学友会雑誌」第三十五号に漢詩『牧童』を発表。続いて『護良王』、『観月』、『残菊』の漢詩三つと『歳末の感』を次の号に、第三十七号には『厭世主義を評す』を発表している。
中学の一級上だった辰野隆は、当時の谷崎の風貌を、以下のようにスケッチしている。

潤一郎少年と弟 12歳の潤一郎(右)とその弟の精二。祖父の死後家計は苦しくなり、教師の尽力で中学校に入った

「谷崎は―両手を上衣のポケットに突込み、すこし前こごみで、眼を光らせながら、のそりのそりと歩いている形が―何処やら野良猫に似ていた。今でも、中学三、四年頃の彼の写真を秘蔵しているが、先日も久しぶりで、筐底から取出して眺めて見た。昔そう思ったせいか、やっぱり猫のようなところがある」(『伝記 谷崎潤一郎』野村尚吾)

ようやく一中に入学できた谷崎だったが、二年目のときに父の事業がいよいよ苦境に陥り、廃学をせまられることになった。
そこをまた、教師の斡旋で築地精養軒の主人、北村氏の住み込み家庭教師になり、学業を
続けられるようになったのである。

府立一中を卒業した谷崎は、第一高等学校、英法科に入学した。
谷崎は、府立一中のころから、自分が作家としての天分に恵まれている事を自覚していたが、学費を出してくれた、北村氏の希望を容れたのだった。

ところが二年生の終わりも近い明治四十年六月、谷崎の身辺に、変事が襲った。
北村家に行儀見習いに来ていた、小間使いの福子との恋愛が発覚し、谷崎は北村家から追放されてしまったのだ。

当時、奉公人の恋は御法度だった。
北村家から突然、『スグキテクレ』という電報を受け取った父親は、大慌てで北村家に向かった。

北村氏から事情を聞いた父親は「恥ずかしくて、人にも話せやしない」と、ぷりぷり怒りながら、谷崎を連れて戻ってきた。
結局、伯父が高等学校卒業までの学費を出してくれることになり、谷崎はこれを機会に文学で身を立てる覚悟を決め、英文科に転じたのだった。

『週刊現代』2014年10月25日号より

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