[BCリーグ]
新潟・青木智史「悔いなき野球人生、すべてをかけた最後の1年」

スポーツコミュニケーションズ

引退決意は、昨オフからの覚悟

 7年間を振り返ってみて、最も印象深いシーズンはと問われれば、やはり高津監督の下、日本一となった12年シーズンを外すことはできません。僕が入団した08年は、球団としては2年目のシーズンでした。前年、新潟は勝率2割5分7厘と、ダントツの最下位に終わっていました。その翌年、僕が入団したわけですが、正直言って、はじめは選手たちの意識の低さを感じていました。チームの規律が乱れていて、いかにも弱小チームの典型、という部分が数多く垣間見られたのです。

 しかしその年、監督に就任した芹沢さんの厳しい指導の下、チームは徐々に変わっていきました。そして翌年からは僕自身がコーチを兼任するようになり、指導者の立場としてチームの意識をより高いものにしていこうと努めてきました。そうしていくうちに、チームはどんどん強くなっていきました。そして11年には宿敵だった群馬ダイヤモンドペガサスを破って初めての地区優勝。翌12年には初のリーグチャンピオン、さらには日本一へと上り詰めて行ったのです。

喜びを分かち合った中山コーチ<右>

 リーグ一の弱小球団から、常勝球団へと変わっていく、その過程を見てきた僕にとって、日本一達成は感慨深いものでした。でも、一番嬉しかったのはリーグチャンピオンの瞬間だったかもしれません。リーグ優勝が決まった瞬間、当時新潟の投手コーチだった中山大コーチ(現富山サンダーバーズ投手コーチ)と「やっと勝てた」と言って、2人で嬉し泣きをしたことは、今でも鮮明に覚えています。中山コーチは球団創設の07年には球団職員として在籍し、翌年には選手として入団。10年からはコーチを務めていましたので、気持ちはまったく一緒だったのです。

 でも、もうひとつ欠かすことができないのが、今シーズンです。現役を引退することを発表したのは8月でしたが、覚悟は昨オフからしていました。昨年、シーズン終了後に契約更改の場で、球団からは引き続き兼任コーチとしてのオファーをいただきました。しかし、そこで僕は選手一本でやることを球団に申し入れたのです。それは「来年が最後のシーズン」という覚悟のうえでした。

 これまでは選手でもあり、コーチでもあるかたちが自分を最も成長させることになると考えていました。と同時に、次のシーズン、自分が成長できるかどうかを物差しにして現役続行を決めてきました。しかし、それでは退路を断ってやる覚悟をもてないのではないかと思ったのです。そして、改めてコーチと選手とどちらがやりたいかと考えた時、やはり自分は選手をやりたいという方が強かった。そこで、あと1年と決めて、100%の気持ちでやり切って、現役生活を終わらせようと考えたのです。その背景には、これ以上を自分には求められないという気持ちがあったのも事実です。

 とはいえ、もしシーズン中にまだ成長している自分を感じ、「やっぱり現役を続けたい」という気持ちが生まれたら、その時はまた考えようという気持ちもありました。しかし、実際は「この1年を最後にする」という決意に勝る向上心は出てきませんでした。そこで8月に引退を発表させてもらったというわけです。