俳諧師・井原西鶴は、内心、穏やかではなかったのだろう。
己こそ、これからの談林派(大坂で初めて誕生した俳壇)を背負って立つ才の持ち主であると信じているのに、なかなか芽が出ない。評価されない。そこで、同じようにくすぶっている仲間を集めて万句興行を催した。その句集の序文で、彼は旧派の俳諧を批判しつつ、こう言い放ったのである。
わしの俳諧を「阿蘭陀流」やと蔑視(さみ)する者がおるが、そしらば誹れ、わんざくれ。
阿蘭陀流とは、正統でないという意で、ゆえに俳諧師・西鶴は俳壇で異端視されていたとする説が多い。
ところが私はこの一節に触れて、ははんと思った。彼は異端視どころか、本流の俳壇からあまり相手にされていなかったのではないか。ゆえに自ら「阿蘭陀西鶴」だとブチ上げたのではないか、と。
そしらば誹れ、わんざくれ。
これを今の大阪弁に翻訳すると、次のようになる。
けなしたかったら、けなさんかい。どうとでも言うてくれ。
大坂者のこの居直りは確信犯であって、決して捨て鉢になっているわけではない。江戸っ子の「ええい、どうとでもなりやがれ」とは異なって、むしろ注目を集めたい一心の物言いなのだ。肚の底には無闇な自信もうかがわれる。
わし、他の者とはちょっと違いまっせ。これからどえらいことをやってのけるよって、まあ、楽しみにしときぃな。
西鶴がげろりと咽喉を鳴らす音を聞いたような気がした。
このおっさん、おもろいなあ。ほんま、目立ちたがりの負けず嫌いや。けど、身近におったら、さぞ傍迷惑やろなあ。ことに身内は。
そう思った私は、西鶴の娘の視点で彼の人生に迫ってみようと考えた。無謀な挑戦であるのは自覚していた。彼女が盲目であったことは、種々の文献で指摘されているからである。
とはいえ、西鶴の出自は不明点が多い。
家業が刀剣商であったとする説があり、それゆえか生家の数代前は武家であったともされるが、西鶴自身は根っからの町人であると私は思う。
彼が十代を送ったのは、大坂で町人経済が勃興し、途方もない金銀が遊興に費やされるようになった明暦(一六五五~五八)頃のこと。十五歳前後で俳諧を学び始めたとされるから、富裕な家に生まれ育ったことが知れる。
文芸は上方が中心であったとはいえ、徳川の天下は始まったばかり、将軍もまだ四代目である。江戸や諸国には戦国の気風が残り、町奴が刀を振り回しては殺傷沙汰を起こし、捨子や捨親も横行していた。そういう時代に古典の素養を身につけ、俳諧にいそしめる身分は、大坂ではやはり町人だ。
右肩上がりの景気に沸いて、大坂町人は初めて自前の文化を花開かせた。後に享楽的な元禄文化へと爛熟していく憂世で、西鶴がいかに生き、何を書こうとしたのか。
娘との暮らしのさまざまから描いたのが、『阿蘭陀西鶴』である。
ことに、西鶴がなにゆえ”長いもの”に手を染めるようになったのかに、私は一人の書き手として心が動いた。”長いもの”とは後世で言う浮世草子のことで、今のエンターテインメント小説だと解してもよいだろう。俳諧師として頂点に立つことを目指していたにもかかわらず、彼は日本初のエンタメ作家になったのである。
色と欲、生きることと死ぬことを書いた。
そしてもう一つ。西鶴はベストセラー作家になって後、全く作品を発表していない時期がある。これも無性に気になった。空白の二年間は体調不良であったとされるが、果たしてそれだけだったのだろうか。
書き手としての想像を織り交ぜながら、その謎にも迫ってみた。先達の諸研究から大きく逸れている箇所もあるかもしれない。
けど、西鶴はんに倣ってこう嘯くことにしまひょうか。
そしらば誹れ、わんざくれ。
(あさい・まかて 作家)
講談社 読書人の雑誌「本」2014年10月号より
『阿蘭陀西鶴』
著者:朝井まかて
定価 : 本体1,600円(税別)
江戸の浪華のエンタメ作家・井原西鶴は人間大好き、世間に興味津々なれど、傍迷惑で数多の騒動を引き起こす。直木賞受賞第1作!