海外に興味のなかった私が、英国オックスフォード大学の修士課程に進学した理由

Road to Oxbridge オックスブリッジに憧れて〜学術修士編〜
オックスブリッジ卒業生100人委員会

ある時、カレッジの先生から、「君はここで勉強を続ける気はないのか。是非チャレンジしなさい」という言葉をいただいた。それまで全く自分に自信が持てず、自己否定していた私が、世界トップ校の先生から認められたことで一気に変わった。そして、論文の準備のため文献をひたすら読み漁り、本気で物事に打ち込むようになった。勝海舟、木戸孝允、西郷隆盛、伊藤博文…維新の重鎮たちが英国外交官と会談した内容など、教科書では学ばない一面を多く知ることができ、学ぶ楽しさを覚えた。

学び舎ペンブルックカレッジ。自分の意識・人生が変わるきっかけはこの場所からだった。

一難去ってまた一難

帰国し、幸いにも卒業論文で非常に良い評価を得て卒業することができた。内閣府主催の「世界青年の船」事業の日本代表青年にも選ばれた。13ヵ国の青年と寝食を共にし国際情勢について語り合い、国連職員からテロの背景、気候変動など地球規模課題に関する講義を受け、それまで他人事に感じていた「世界」が、一気に「自分事」となった。そして、訪問したインドやタンザニアでリアルな貧困やその根源にある深い闇のような社会問題を目にしたことで、これまでの自分を恥じ、国際問題に何か貢献したいと考えるようになった。

就職をし、日中は働き夜は英語の勉強と留学準備をしていた。私はアーネスト・サトウという当時の駐日外交官をはじめとした外国人から見た明治維新の過程、特に何故英国が日本との外交において他国をリードできていたのか、その情報力や諜報活動について研究していたので、ケンブリッジ大学が最適な場所だった。

しかし、「世界青年の船」事業で見た貧困問題へ何かできないかと思っていたため、同事業で出会った国連大学のインド人指導官のもとへ通い、開発学について指導を受けていた。その時にアフリカ諸国に対する英国政府の開発援助政策に魅かれ、英国で開発援助を学びたいと感じるようになった。その他にも、近代日本の国づくりに大きく貢献した英国、日本に敬意を払い「Japanology」という学問を構築しながら外交に臨んだその姿勢、「大英帝国」の地球全体を俯瞰したグローバル・ガバナンスとその成功・失敗例といった多くの事例を持つ英国で学びたいと思っていた。

いざ出願となった時、一つの深刻な問題が発生した。それは、推薦者となるはずだった私に進学を勧めてくれた先生が、病気で亡くなったのだ。このことで、私のような人間が合格するのは非常に厳しい、諦めようとも思った。しかし、ここまで準備をしてきたのだから、ダメ元で出願しようと思い、詰めに詰めた研究計画書を持って渡英し、ケンブリッジで指導を仰ぎたいと思っていた教授に直談判しに行った。これが功を奏したのか、2005年の5月頃、出願状況をチェックした時、「Offered(合格)」という文字を見ることができた。

ケンブリッジ進学を諦め、オックスフォードへ 

ケンブリッジ大学に合格したものの、入学に向けて二つの問題があった。一つは、英語の試験の基準点が期限ギリギリになるまで達しなかったこと。もう一つは、私の指導教官がサバティカル(長期研究休暇)を取ることになったのだ。大学とも色々と相談したのだが、他に適切な人がいないため、研究分野を変える必要があると言われ、進学を諦めた。これで何かが吹っ切れ、日英外交史からより実学に近い外交や国際関係、開発学に改めてチャレンジすることにした。

次の年の出願に向け、具体的に何を学ぶか絞り込み、その分野に強い大学のコースにとにかく願書を出した。専攻を変えること、これは賭けでもあったが、自分が世界トップの大学からどの程度評価されるのか知りたいという気持ちもあって出願した。渡英し、出願したコースの先生にも直接会って熱意をアピールしに行った。渡英中にも続々届く不合格通知。国際電話の先で母が代読する「We regret~」と書かれた文章の度落ち込んだが、現地で「We welcome you」と合格をいただいた時に、これまでの全ての努力が報われたと安堵した。

家に届いた合格通知。これまでの努力が報われた時、全身の力が抜ける思いだった。