安西洋之(以下、安西) 日本の工芸品、陶器や磁器をヨーロッパの人が見ると、「この作品は深い」と思うことが多いそうです。この話を、糸井さんとしたいなと思っていたんですよね。
糸井重里(以下、糸井) ほう。
安西 それは、神秘の国の文化ということで、何かしらの深さがあるんじゃないかと誤解されている可能性もあるでしょう。一方で、もともと日本文化には言葉にしないで表現する面がありますよね。それはケルト文化なんかにもあるんですが。そういうことに対して、人は深さを感じがちなんじゃないかとも思うんです。
糸井 そうかもしれませんね。
安西 日本って工場の生産性は優れているけれど、ホワイトカラーの生産性は低いと言われていますよね。でもここと「深い」という話を組み合わせると、深いというのは長い時間よく考えることでもあって、逆に生産性の低さは評価すべきものがあるのかもしれない、と思ったんですよね。これがひとつの日本のブランドになる可能性があるんじゃないかと。本でも紹介しましたが、あるイタリア人のデザイナーが、漆の工芸品も、MUJIの文房具も、キヤノンのカメラも、すべて同じカテゴリの「日本のデザイン」としてとらえていると言っていました。それならば、この働き方も日本文化の「深み」として活かせるんじゃないかと思ったんです。
糸井 深さ、ですか。書き言葉って、人類の歴史を巻物にしたら、本当に端っこのごく最近始まったものですよね。その前にあった膨大な無文字の年月が、無文化だったわけはない。それは踊りや声を旋律にのせること、食べることなどのなかにあったはずです。そういう無文字の時代の文化って、体内にずっと蓄積されてきている。それは、「内臓文化」とも言えると思うんです。
安西 内蔵文化、ですか。
糸井 「内蔵文化」って、今僕がつくった言葉ですけどね(笑)。この、内臓の感覚で通用することは、基本的に「深い」と捉えられるんじゃないでしょうか。「胸に響いた」「腹に落ちた」という表現などにも表れるように。言葉を激しく交差させても、大したものにたどり着かなかった時は、内臓の出番です。職人さんが無口につくっているものというのは、内臓文化に基づいていて、それを見出す力はどんな人にもあるんじゃないでしょうか。