第93回 本田宗一郎(その四)現役を引退した後超多忙人間に―「お礼行脚」で日本中を回った

福田 和也

この頃、宗一郎は埼玉の事業所を仕事の本拠地にしていた。そのゴルフ場は事業所から近いうえにプレー代が安くていいと、ときには社員たちを連れて、ゴルフを楽しんだ。
宗一郎なら、日本、いや世界中のどんなゴルフ場の会員にもなれたことだろう。
それを便利だからと、荒川のゴルフ場を選ぶところがいかにも宗一郎らしい。


お礼の会 '91年に死去した宗一郎を偲んで開かれた「お礼の会」ではホンダのバイクや自動車が数多く展示された (C)読売新聞/アフロ

宗一郎は現役時代から、日本画をたしなんでいた。
作品が公表されることはほとんどなかったが、毎年の年賀状はその年の干支を描いた自作の絵が印刷されていた。骨太のタッチながら、筆遣いが繊細で、経営者としての磊落ぶりと、技術者としての慎重さの両面が現れていたという。

あるとき、親友のソニーの創設者、井深大が宗一郎に言った。

「本田さんの絵ねぇ、息づまるぐらいに正確だねぇ、犬の絵なんか、毛の一本一本の数まで数えて描いたんじゃないの」

「よお、気がついてくれたの。そうなんだよ。あの犬ね、オレの家に長くいた老犬なんだ。人間が勝手にアイツの姿をゆがめて描いちゃかわいそうなんだ。それでオレ、毛の数まで正確に描いてやったんです」(梶原一明『本田宗一郎 思うままに生きろ』)

宗一郎が亡くなった夜の本田邸はひっそりしていた。
「ホンダ」関係者の出入りは一切ない。さち夫人、長男の博俊さんと近親者が、花に囲まれた遺影の前で、故人の思い出を語り合うだけであった。

宗一郎は無宗教、無信仰であったため、読経もなければ、戒名もない。しかも社葬は行わないという。「ホンダ」ほどの大企業の創業者の死で社葬を行わないのは、めずらしいことであった。
全ては宗一郎の遺志だった。

1988年12月に藤沢武夫が亡くなったときは、宗一郎が葬儀委員長となり、東京・芝の増上寺で盛大な社葬を行っていた。
おさまりきらない社員の提案で、完全無宗教の「お礼の会」が、東京・青山の本社、全国の主要工場などで、9月5日から4日間、開かれた。
オートバイから自動車、ヨット、ゴルフ、芸者遊びに尺八、日本画と、宗一郎は公私にわたり、ありとあらゆる道楽を重ねてきた。

蕩尽という行為をここまで追求出来たこと自体が、本田宗一郎の真面目であろう。

『週刊現代』2014年9月20・27日号より

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